Doctor G 3 のメディカル・ポプリ

地域医療とプライマリケア、総合診療などに関係したネット上のニュースを記録。医学教育、研修、卒後キャリア、一般診療の話題、政策、そしてたまたまG3が関心を持ったものまで。ときどき海外のニュースも。

3月11日 

https://www.m3.com/news/iryoishin/510700
「人件費増で経営厳しさ続く」高野病院・高野己保理事長に聞く◆Vol.1
「声を上げて、過疎地域の医療機関のモデルケースに」

2017年3月11日 (土) 高橋直純(m3.com編集部)

 2016年末、高野英男院長(死亡時81歳)が急逝し、存続の危機に直面した福島県広野町の高野病院。福島県内の医療機関の医師らが「支援する会」を設立し、マスメディアでも数多く取り上げられたことで、全国に知られるようになり、新院長も決まった。しかし、福島第一原子力発電所事故の影響がいまだ続く被災地にあって、病院経営を取り巻く状況が改善したわけではない。2月末に開催された高野前院長のお別れの会の後に、関係者に話を聞いた(『「カルテ通じて、今も指導」高野院長お別れの会』を参照)。

 初回は高野氏の二女で、病院の理事長を務める高野己保氏。震災後も医療のニーズは変わらない一方で、人件費などが膨らみ厳しい経営が続いているとし、「被災地で医療を継続した医療機関が存続できるスキームが必要」と強調する(2016年2月28日にインタビュー)。

――高野病院の地域における位置づけを教えてください。
 1980年に精神科医だった父英男が開業しました。当初は精神病床が多かったですが、今は地域の高齢化に併せて療養病棟1棟65床、精神療養病棟1棟53床の計118床となっています。患者さんの9割は双葉郡(福島県浜通りの6町2村)といわき市から来ています。震災後も患者構成はほぼ変わらず、ずっと満床状態が続いています。療養病床の平均在院日数は4年、平均年齢は約84歳で、死亡退院となる方が多いです。

 精神科は震災後、一度閉めたこともあり平均在院日数は3年程度で、開放病棟であることから統合失調症が多く、震災後はアルコール依存症も増えました。認知症患者は内科で診ています。政策としては在宅へ移行しようという流れがありますが、現実としては医療を継続するための家族の協力が得られないという患者さんも多いです。

――震災直後に残って診療を続けたということが知られています。

 海岸に近いですが、高台にあることから建物被害はそれほど大きくなかったです。原発事故の影響で広野町役場も、震災後4日目の3月15日には避難を決めましたが、移動困難な患者が多数いたこと、院長が自分で放射線量を測り病院にいれば影響はないと判断して残りました。その後、ライフラインが途絶えたことやスタッフの減少から、患者の一部は移送することになりましたが(※編集部注記:震災後の様子は『福島原発22キロ高野病院奮闘記』(井上能行著)に詳しい)。

 当初は院長の「すぐに忘れられる。私たちができることをやろう」という考えで、全ての取材を断っていましたが、正しい情報を伝える必要があると思うようになり、途中からはブログを通じた情報発信や取材を受けるようになりました。東京電力との補償交渉はMRICでもレポートしました。

――患者数は変わらないということですが、経営状況はいかがでしょうか。
 震災前には必要なかった経費が多く、非常に苦しい状況が続いています。売上ベースでは変わりませんが、人件費が上がっています。さらに、ベテランが抜けたところに新人で、同じ医療の質を保とうとすると、より多くの人の必要になります。地域のコミュニティの状況も大きく変わり、避難所の関係でそれまでは祖父母に子供を見てもらえた人が頼れなくなり、夜間や休日に出てこられなくなるということもあります。震災前は33人だったスタッフは今は46人に増えています。

 県外からも来てもらっていますが、その人たちのアパートを借りる費用もかかります。広野町のアパートは6棟ありますが、すぐにいっぱいになってしまい、隣のいわき市から通ってもらっています。出費はかなりかさみますが、そうしないと病院が回りません。

 補助金や東電から賠償金で何とかとんとんにしていますが、今後、東電からの賠償金は減ってくるので経営がさらに苦しくなることは目に見えています。東電の言い分は「人件費が増えたのは自らの経営判断」というもの。しかし、原発事故さえなければ、なんてことなく普通に営業できていたはずです。

――スタッフ集めに苦労されていますね。
 昔から苦労していて、コメディカルについては、送迎バスを走らせたり、奨学金を出して自分たちで人を育てたりしてきました。震災以前はうまくまわっていましたが、震災で歯車が止まってしまいました。自宅が警戒区域になってしまい転居せざるをえない人も多く、元からいたスタッフは10人ほどです。医師については、他の病院と同じように、医師派遣会社や大学、知り合いを通じてお願いしてきました。学会や講演会などで窮状を訴えたりもしています。震災1年後に常勤医が院長1人になり、夜間や休日を中心に9人の非常勤の先生に来ていただいています。

――昨年末に院長がお亡くなりなると、病院存続の危機として、連日ニュースで取り上げられました。
 正直に申しますと、院長存命中に次の院長はほぼ決まっていました。院長も体調を悪くしていたので、サポートとして来てもらう予定でした。ただ、このような事態になり、マスメディアでも報道され、慎重に進めないと破談になりかねない状況で、1、2月は水面下で話を進めていました。前任地との関係で早くても4月からということだったので、1月から3月をいかに乗り切るか、そして新院長としての合意を取りつけるかが課題でした。

 4月からは院長と福島県立医大から派遣していただく先生で常勤医2人体制となります。一方で、精神科は週2回の応援でしのいでいくことになります。新しい院長は小児科の先生で、これから住民の帰還が増えていく中で、小児科があることは地域にとってとても重要になると考えています。老人医療や精神科も勉強すると言っていてくれています。

――3月まではどのように乗り切るのでしょうか。
 南相馬市立総合病院の医師を中心とした「高野病院を支援する会」が作られ、1月は非常勤の先生と全国のボランティアの先生方に助けていいただきました。2-3月は、都立駒込病院から来た中山祐次郎先生が院長になってくれました。

――福島県や県立医大、復興庁などが参加した「緊急対策会議」が開かれました。
 県、県立医大、復興庁、医師会などによる会議です。2月24日に3回目があり、とりあえず終わりとなりました。県は医師確保が緊急の問題としており、それが果たされたということでした。 会議の中では病院の「無償譲渡」という話もしました。それは、民間病院であることで支援の手がほとんどなかったとの認識からです。地域唯一の民間病院になったことで、逆に公平性に問題があるとして要望を聞いてもらえないことが多々あります。はっきりと「一つだけは助けられない。他の民間病院に言い訳が立たない」と言われたこともあります。

 県はあくまで「高野家」の問題にしようとしているようで、「跡継ぎがいなくてつぶれても仕方ない」という姿勢が感じられますが、地域の医療を担っていく医療機関がそんなことで潰れていいのか。だからこそ、病院の無償譲渡や公設民営モデルを提案しました。

 県は受け付けようとしていませんが、ここで私が声を上げて、過疎地域の医療機関のモデルケースになれば日本全国で安心して医療ができるようになると思っています。病院経営に関する新たな話し合いの場が作られることになっており、引き続き関係者に考えていってもらいたいです。

――今後の経営の見通しはいかがでしょうか。

 経営的に厳しくなるのは目に見えています。この地域の医療は常勤医が来たからといって解決する問題ではないです。へき地扱いにするなど、抜本的な対策を取らないと厳しいです。高野病院に限って言うと、これまでは院長が一人5役、つまり精神科指定医、内科、当直、救急、レントゲン技師をやっている状態でした。それを、それぞれ新たに雇うとなるといったいいくらかかるのかと。

 私たちが倒れてしまうと患者さんにも迷惑がかかります。入院は満床状態が続いており、外来では非常勤の先生の協力により、頭痛外来、内視鏡外来を2016年から始めるなどしています。これらも地域にとって必要な医療を考えて設置しましたが、赤字が続いているので広報を強化していきます。

――被災地の医療機関としてどのようなことを考えておりますか。
 先日、日本集団災害医学会でお話ししてきましたが、災害があるとDMAT等はとにかく患者を被災地外に避難させようとしますが、残った病院がどうやって経営していくのかという問題が残ります。残った病院がどれだけ大変な経営状況を強いられるかという話をしてきました。

 病院が存続できる状況であれば、無理に搬送するより残って医療を提供し続けた方が患者さんにとっては負担も少ないです。しかし、頑張っても数年後に潰れるとしたら、最初から辞めてしまおうと判断するかもしれない。だからこそ、きちんと病院が存続できるスキームが作れるよう頑張ろうと思っています。

――最後になりますが、高野英男先生はどんな医師だったのでしょうか。
 昔の医師でした。いい車に乗るとか全く考えず、新しい症例を見付けると目をきらきらさせて本を読んでいましたし、何より患者が好きだった。「無名の臨床医で、ただの一医者でいい」と言いながら過ごしてきました。「どんな時でも自分ができることを粛々とやる」とよく言っていましたが、その思いを継いでいきたいです。



https://www.m3.com/news/general/510443
へき地医療支え31年 退任の岡本管理医に感謝状
2017年3月11日 (土) 神戸新聞

 兵庫県佐用町立西新宿出張診療所で、1986年から管理医師を務めてきた岡本泰子さん(64)=同町家内=が3月末で退任する。地域の住民らがこのほど感謝のつどいを開き、27人が参加。岡本さんに感謝状を贈って、31年間の労をねぎらった。(横部章夫)

 同診療所は、旧上月町が1963年、へき地医療確保のため開設した。岡本さんは85年、夫で医師の俊和さん(69)とともに同町家内に医院を開業。翌年4月から同診療所の医師を兼務し、当初は週2日、その後は週1日、時間を限って診療に当たっている。

 感謝のつどいは西新宿公民館であり、地区と交流のある社会福祉法人「はなさきむら」から提供を受けたちらしずしを食べながら岡本さんを囲んだ。自治会が贈った感謝状は、俊和さんの支えも大きかったとして夫婦連名にした。

 4月以降、診療所は休診となる見込みだが、岡本医院が地区に迎えの車を出し、継続して診療が受けられるようにするという。

 岡本さんは「診療所まで片道7キロ。四季折々の美しい自然、人々との温かい触れ合いで楽しいことがいっぱいだった。患者さんとは医院でも、診療所にいる時のような感じで、おしゃべりを楽しみたい」と話していた。



https://www.m3.com/news/general/510698
特定機能病院の安全強化へ、医療法改正案を閣議決定
2017年3月11日 (土) 読売新聞

 群馬大学病院など、高度な医療を提供する特定機能病院で患者の死亡事故が続いたことを受け、政府は10日、特定機能病院の安全管理体制を強化する医療法改正案を閣議決定した。今国会での成立を目指す。

 群馬大病院では、2014年11月に肝臓の 腹腔鏡手術を受けた患者8人の死亡が発覚したのをきっかけに、日本外科学会が手術後死亡の50例について検証を行い、多くの不備を指摘。第三者調査委員会が昨年7月、報告書を発表し、人材不足の中で二つの外科が手術数を増やし続け、患者の安全を置き去りにした組織管理の問題を指摘していた。

 改正案では、特定機能病院の要件に、高度な医療安全を確保する能力を新たに加え、医療安全に関する監査委員会の設置を義務づける。群馬大問題の後、厚生労働省は省令を改正し、問題があるケースを分析し、再発防止につなげる仕組みを整えることが必要としていたが、法律で明文化し徹底を図る。トップの病院長の組織管理における権限も明確化するよう求める。外部から見えにくいと指摘がある病院長の選考については、外部有識者を含む委員会で厳正に審査を行うよう定め、医療安全に指導力を発揮する人材が適切に選ばれる体制作りを進める。

【特定機能病院】  高度な医療を提供でき、人員や設備基準などを満たす400床以上の病院を厚生労働大臣が承認。診療報酬が増える優遇措置を受けることができ、大学病院を中心に84病院が承認されている。2015年6月、患者の死亡事故により、群馬大病院と東京女子医大病院が承認を取り消された。



https://www.m3.com/news/general/510541
青森)遠隔医療システム、モデル事業実施へ
2017年3月11日 (土) 朝日新聞

 医療機関まで遠いへき地などでのICT(情報通信技術)を活用した遠隔医療システムの実現に向け、県は新年度、弘前大学に委託してシステムを開発し、モデル事業を実施する。併せて、遠隔医療を支えるため、一定の医療行為を行える看護師の育成や訪問服薬指導を行う薬局間のサポート体制を構築する。

 新年度予算案に新しい「地域を支える医療システム」構築特別対策事業費として計4854万円を盛り込んだ。

 遠隔医療を実施する対象としては、慢性疾患の患者を想定。血圧や体温など基礎的なデータについて、訪問した看護師がタブレット端末などで医師に送り、医師が画面を通して問診する。医師から処方箋(せん)が薬局に送信され、薬剤師が訪問して薬の副作用や飲み方などを患者に伝える服薬指導をする。新年度中にモデル地区を選定し、実証実験を行う予定だ。

 遠隔医療では医師自身は患者を訪ねないため、医師の手順書に従ってカテーテルの挿入や取り外しなど「特定行為」を行える看護師を育成する。特定行為を行うには国が定めた研修を受ける必要があり、その経費の半額を補助する。予算案には10人分1125万円を計上した。

 また、在宅医療に対応するため、県薬剤師会の各支部ごとに訪問服薬指導する薬局間のサポート体制を構築する。

 県医療薬務課の奈須下淳課長は「人口減少と高齢化が進む中、へき地など医師不足の地域でも適切な医療を受けられる仕組みを作っていく」とした。

 県では現在、へき地医療支援として、三戸中央病院が三戸町の大舌地区などで、鰺ケ沢病院が鰺ケ沢町の長平地区など、公立野辺地病院が横浜町の明神平地区で、医師が定期的に訪問する巡回診療を年間150回以上実施。下北地域では、むつ総合病院と大間病院が佐井村の2診療所に年間70回以上医師を派遣している。(姫野直行)



https://www.m3.com/news/iryoishin/510721
医療事故等の警察届出、2年連続2ケタにとどまる
2016年は68件、年別送致数は43件でピークの半数弱

2017年3月11日 (土) 橋本佳子(m3.com編集長)

 警察庁のまとめで、2016年1年間に、医療事故などとして警察に届出等が行われたのは68件で、2年連続で2ケタに留まったことが明らかになった。2015年は65件で、41件の1999年以来、16年ぶりに2ケタとなり、厚生労働省の「死亡診断書記入マニュアル」の改訂で、医師法21条に基づく警察への届出に関する理解が進んだことが要因として考えられた(『医療事故等の警察届出、2015年は前年から半減』を参照)。2016年の年別送致数は43件で、ピーク時の半数弱。

 届出等件数の内訳は、「被害関係者等」が19件(2015年比5件増)、「医療関係者等」が45件(同比2件減)、「その他」が4件(2015年と同じ)。

 2016年の届出等件数の68件のうち、2016年末までに、業務上過失致死傷等事件として送致されたのは2件。年別送致数(届出等の時期に関わらず、2016年1年間に送致・送付された件数)は43件(2015年と同じ)。ただし、届出等の時期をさかのぼると、2007年に届出されたものが1件あるなど、捜査等に時間を要するケースが見られる。

 2000年以降の年別送致数の傾向を見ると、2000年の24件から増加し、ピークは2006年の98件。以降は減少傾向にあり、2011年は54件だった。しかし、2012年には一転して93件に増加、その後、再び減少傾向に転じ、2015年と2016年はいずれも43件だった。
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https://www.m3.com/news/iryoishin/510517
シリーズ m3.com意識調査
研修医、若い世代ほど診療科選択に迷い
35歳未満は4割以上が希望変更

2017年3月11日 (土) m3.com編集部

 医師国家試験の合格発表が3月17日に行われ、4月から新医師が誕生する時期に合わせて、m3.com意識調査では「初期研修医時代の思い出は?」において、研修医時代の体験について伺った。

 Q1の「卒後2年間の初期研修はどの病院で受けましたか?」では、「大学病院」と回答した医師が35歳未満では33.8%、35歳-50歳未満では57.6%、50-65歳未満では71.4%、65歳以上では72.7%。2004年度に臨床研修が必修化された世代に相当する、35歳未満で大きく大学病院の割合が下がっている。

◆全ての回答結果はこちら → 「初期研修医時代の思い出は?」
◆自由意見、研修医時代の体験談はこちら → 「研修医時代、ぼろ雑巾のように働かされた」 (3月12日公開)


Q1: 卒後2年間の初期研修はどの病院で受けましたか?
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 Q3 「希望する診療科は研修中に変わりましたか?」との質問には、「変わった」が35歳未満で42.6%を占めたが、35-50歳未満で28.4%、50-65歳未満で15.4%、65歳以上で11.7%となり、若い世代ほど研修中に診療科について悩んでいる様子が伺えた。

Q3: 希望する診療科は研修中に変わりましたか?
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【調査の概要】
・調査期間:2017年3月2日-2017年3月7日
・対象:m3.com医師会員
・回答者数:1260人(開業医:274人 / 勤務医:986人)
      ※35歳未満204人、35-50歳未満493人、50-65歳未満486人、65歳以上77人 ・回答結果画面:初期研修医時代の思い出は?

Q6: これから医師になる方々に、先輩として贈る言葉があればご記入ください

・月並みですが、病気を診て、人としての病人もしっかり診てあげてください。技術を磨き、人間性を磨くことが、己を磨くことになるでしょう。失敗することを避けるのでなく。失敗しないように準備を怠らず、常に勉強そして、先輩医師を敬いながら、先輩医師にただ従うのでなく、常に疑問をぶつける研修生活を送ることが、良き臨床家への早道と思います。暇があることは損していると思うべし。そして切磋琢磨できる友人を持つべし。【勤務医・35-50歳未満】

・大学病院での勤務経験もありますが、初期研修は市中病院で完結すべきだと強く思っています。研修医の頃に学んだことの多くが、その後の医師としての人生で役立つので、一般臨床にできる限り触れるべきだと思います。大学では、病名の分かった紹介患者が多い上に、無駄な雑用を押し付けられることが多く、時間の無駄です。研修先を迷っている方々には、大学病院は絶対に避けるべきだと声を大にして言いたいです。 【勤務医・35-50歳未満】

・もはや今の世の中、医局に所属して何十年も転勤生活をするような時代ではありません。でも、医師として良い環境で生きていくためには、やはり専門医の取得は必要なことです。病院や医局はあてにしすぎない方が得策です。専門医を取得した後、自分はどうやって生きていくのか、それをしっかり考えて悔いのない選択をしてください。 【開業医・35-50歳未満】

・一つひとつのことを確実にする能力を身に付けることが大事と思います。適当にすれば早く終わるし、なんとなくそれで過ぎていくことが多いですが、どこかで足元をすくわれるように思います。初めは時間がかかっても、上達すれば早く確実にできる能力が身に付くし、任せておけば安心という周りからの信頼も得られて、とても仕事がやりやすくなると思います。 【勤務医・35-50歳未満】

・学生時代に自由気ままに過ごしてきた医学生にとって、初めて社会に出て、責任がかかってくるので、きついのは当たり前。趣味を持って、愚痴や悩みを言える同僚を持ち、患者の声に耳を傾け、真摯に一つひとつの事象を考えることがよいドクターになる道だと思います。出身大学や成績は全く関係ないことが働き始めてよく分かります。 【勤務医・35-50歳未満】

・検査値・ガイドライン・マニュアル等が大切なのは当たり前ですが、患者は人間です。理解や満足度は、人それぞれです。社会背景等も充十分把握しての対応が必要です。相手を理解するためには、自分自身が成長していないとダメです。本を読んだり、趣味に精通したりすることも大切です。頑張ってください。 【勤務医・35-50歳未満】

・医師免許を持っているだけで、たとえ初期研修医でも医師であることに変わりはない。そのため理不尽なことを言われたり、雑務をこなさないといけなかったりすることもある。だからこそ、自分が進む道は、自分が好きな科を選んでほしい。好きな科なら、頑張れるはず。妥協で選ぶと続かない。 【勤務医・35-50歳未満】

・身に付けるべき手技などたくさんありますが、それができたからといって自分が優れていると思ったり、同僚に自慢したりはしない方がいいです。みんな言わないだけで大概同じくらいできていますし、思い描く進路や興味のあることはみんな違うので人と比べても仕方ないです。 【勤務医・35歳未満】

・患者さん本人、家族からの訴えに最大限向き合うことを常に心がける。親身になって治療にあたったことが伝われば、たとえ結果が悪くても、すぐ訴訟ということになるリスクは低くなると思われます。 【開業医・50-65歳未満】

・前途洋々で喜ばしいことと思います。ただ一つ、親族の面倒を見る日が来ることを念頭に入れておいてください。患者の家族に医者がいたら、現状と予後とこちら側の提供可能なサービスには共感的であってほしいと思うものでしょう。 【勤務医・35-50歳未満】

・強くなければ生きて行けない。優しくなければ強くなれない。聖書となる本やインパクト指数の高い最新の文献を読むようにしてください。その上で自分の経験を信用し、諦めないで、自分よがりにならないでください。 【勤務医・35-50歳未満】

・患者さんを診察するとき、目の前の患者さんが、もしも自分だったら、あるいは自分が同じ病気になったときに、どうして欲しいか?ということを考えながら、診療してください。世界が変わるのを感じるでしょう。 【勤務医・50-65歳未満】

・兎に角、患者の事を良く診て、診療を通じて患者さん達から多くのことを学ばせてもらうという気持ちを持って、しっかり診療に務めてください。患者の笑顔と感謝の言葉が、最大の報酬なのですから。 【開業医・50-65歳未満】

・どの診療科に進むことになっても、研修医の間に経験できたことは無駄なことは何もないと思うので手を抜かず、同期とともに切磋琢磨してほしいです。 【勤務医・35-50歳未満】


◆自由意見、研修医時代の体験談はこちら → 「研修医時代、ぼろ雑巾のように働かされた」(3月12日公開)



https://www.m3.com/news/iryoishin/510518
シリーズ  m3.com意識調査
研修医時代、ぼろ雑巾のように働かされた
嬉しい思い出は患者からの感謝

2017年3月12日 (日) m3.com編集部

◆Q: 研修医時代の苦い思い出について、エピソードがあればご記入ください。
◆全ての回答結果はこちら → 「初期研修医時代の思い出は?」
◆調査結果はこちら →研修医、近年は診療科選択で迷い顕著

・救命センターで研修中のことです。交通外傷で運ばれた産後数カ月の女性を受け持ちました。抱っこひもで抱えながら運転していた際に事故を起こし、ベビーは亡くなり、本人は重症ながらも命に別状はない状態でした。ベビーを亡くしたショックで意識は清明だったが、ずっと意味不明な歌を歌っていました。
 大腿や臀部に血腫を認め、とても1人で動ける状態ではなかった上、病歴も聴取できないので、研修医室で事務作業をするため患者から離れたところ、コードブルーの全館放送があり、場所は病院の駐車場でした。駆けつけると、その患者が這い上がり、ルートも抜去して窓から飛び降りたのでした。心肺蘇生も空しく亡くなりました。患者の夫の焦燥しきった表情が忘れられません。【勤務医・35-50歳未満】

・仕事初日、学会の準備で夜の12時近くまで、封筒詰めをやらされた。結局2年間で3日間しか休めなかった。今なら、ブラック認定だ。
 教授は何もせず、講演とか学会活動ばかりしていた。平の兵卒として、ぼろ雑巾のように働かされた。ミスをしたり気に入らないことがあったりすると、総括があり大勢の前でひどく罵倒された。人種差別発言もひどかった。 【開業医・35-50歳未満】

・初めての当直で、「病棟患者でこの人にはこうなったらこの対処をしろ」と言われ、実際そうなって実施したら状態が悪化した。翌日の全体カンファレンスで、なぜ研修医が指示したのかを問われた際、上級医に「僕は指導しておらず、研修医が勝手にやりました」とハシゴを外され、吊るし上げにされた。あとは麻酔科でトイレ交代に出たら、排尿中にスーパーバイザーに、どこに逃げた、殺してやるとPHSで脅された。 【勤務医・35歳未満】

・奨学金返済の関係で研修終了後は地元の基幹病院に就職する約束となっていたが、研修中にその病院が閉院してしまった。それを医局に報告した途端に医局長の態度が冷たくなり、きつくて給料も安くて、その割にたいして勉強にもならない研修先へ回された。
医局は私に未開の土地での派閥獲得を期待していただけで、私という人間の育成なんてことは考えてなかったんだと思い知らされました。こんな医局にいたら自分がダメになると思い、自力で就職先を見つけて医局をやめました。 【開業医・35-50歳未満】

・離島研修で末期がん患者の麻薬を少し多くドリップしすぎ、眠っていたのを意識がないとご家族に説明し、大阪から親族が飛行機で最後を看取ろうとやってきたが、点滴絞ったら、「あーよく寝た」みたいな感じで目が覚め、家族に「なんで死んでないんだ!」と取り囲まれたこと。でもその一週間後にご往生されました。 【勤務医・35-50歳未満】

・一生懸命勉強して医学部に入ったのに、右も左もわからない入局者に対して、「我が派閥に入れ」という争奪戦を繰り広げられ、優柔不断な自分はどっちつかずで浮いてしまうという挫折を味わった。今いろんな人の体験談を知ると対処の仕方はいろいろあったのだな、と悔やまれる。人間関係をもっと学習するべきだった  【開業医・65歳以上】

・1年目は大学病院であったが、採血からルートキープ、側管からのiv、さらに患者さんが持ってきた薬剤のチェックに至るまで医師の仕事であった、正確には看護師、看護助手などが自分の仕事ではないと言ったものは全て研修医の仕事になったことに呆れ果て、二度と大学病院には帰るまいと心底誓ったこと。 【勤務医・35-50歳未満】

・救急ローテーション中、人工呼吸器装着中の患者にCV穿刺。鎖骨下の試験穿刺でairが返ってきてやばいと思いながら、本穿刺はすぐに入ったので、Xpチェックを後回しにしてそのままほかの処置をして戻ってきたら、緊張性気胸で上級医に胸腔ドレーンを入れられていた。救急部長に大変怒られた。 【勤務医・35-50歳未満】

・ローテ中に指導医(後期研修医)と反りが合わず(手術中に電メスにこびりついたゴミを自分の手袋でこすり落とすなど相当な仕打ちを受けた)、その科の2カ月のうち後半1カ月はお互い一切口を聞かなくなった。この状況を見かねた別の上級医に最終的に指導してもらい、無事に研修を終えた。 【勤務医・35歳未満】

・大学医局の閉鎖性を実感し、変わり者教授に人事予算配分権が集中する職場を味わった。その数年後転科し、大学医局とは教授交替するたびにがらりと変わるものだと目の当たりにした。アカデミックを旨とする大学では法律は通じない世界だった。研修医時代はもう30年以上前になりました。 【開業医・50-65歳未満】

・患者さん家族に「もっと上の先生に診てもらえたら…」と言われたこと。上司に「お前の手は小さいので内視鏡は無理だな」と言われたこと。退院当日に患者さんが脳出血で亡くなったこと。内視鏡の全投薬のブスコパンで患者さんが心肺停止したこと(PCPSで蘇生した)。 【勤務医・35-50歳未満】

・外科を研修する前に、居酒屋で外科の先生に遭遇しました。補液の話になり、組成の違いを答えられなかったところ、「もう外科には来なくていい!」と突き放されたこと。悔しかったので、散会後にそのまま医局に戻って勉強しました。 【勤務医・35-50歳未満】

・数え上げればきりがない状態です。私の時代は、全く教えてくれるというのはなくて、見て覚えろの時代なので、失敗して失敗して、いろいろ学びました。先輩医師のカルテを夜中に盗み見て、いろいろな疾患や治療法を覚えました。 【勤務医・35-50歳未満】

・就職当時は文字通り右も左も分からず、ただただ無力感をかみしめる数カ月で、それがつらかった。気が付いたら廊下で下を向いて歩いている自分がいまして、せめて上を見て歩こう!!と思ったのが懐かしい。 【勤務医・35-50歳未満】

・縫合をさせてもらった。5日後病棟でやらせてくれた先生が段違いになっていたそれを私に言わずに黙々と再縫合していた。申し訳ないのと情けない気持ちでいっぱいになった。 【勤務医・50-65歳未満】


◆Q:研修医時代のうれしかった出来事について、エピソードがあればご記入ください。
・女医というだけで頼りなく見られるというのが心配だったので、朝1番に病棟に行き回診、夕方か夜に回診、1日最低2回以上は担当患者さんの顔を見に行っていました。知識が未熟なのをそれでカバーしようという魂胆でした(笑)。こちらの心配をよそに、担当患者さん達からは色々と親切にしていただきました。 【勤務医・35-50歳未満】

・産科で受け持ち患者が出産したこと。学生時代の「お産ちょっと見学」とは違って、切迫早産で入院している妊婦と長い間かけて出産までたどりつくと、自分もこのように思われて胎児で過ごし、幸いにも五体満足で、知能も正常で生まれたことは、当たり前ではなく、有り難いことだと実感できたこと。 【勤務医・35-50歳未満】

・こんなこと競っても仕方ないが、日本で一番ひどい部類の医局だったと思う。当然ですが今は消滅しています。ただ、当時のぼろ雑巾仲間とは、いまだに連帯というか、友情が続いており、時折会っては、当時の話を語り合っています。ま、ひどい目にあったからかもしれません。 【開業医・35-50歳未満】

・新研修制度の第一期だったので、病院側も研修医側も初めてのことばかりで手探りでした。その分、自分達の意思を尊重してもらえて、主体的に診療に関わらせてもらえました。また、当直日程等も組ませてもらえて、和気あいあいと過ごせました。 【勤務医・35-50歳未満】

・亡くなった患者の家族に、患者の病理解剖の許可を得るために話をした際、二つ返事でそれは先生にお任せします、と言われた時は、苦労して何とか治してあげようと頑張っていた努力を家族が認めてくれたと感じ、うれしく思いました。 【開業医・50-65歳未満】

・難治な自己免疫疾患患児を受け持っていました。来る日も来る日も患児、家族といろいろな話をし、とても思い入れの強い症例でした。しかし万策尽き果て失ってしまいましたが、最後は家族に本当に感謝されたことです。 【勤務医・35-50歳未満】

・入って10日目に執刀医をさせられた。何も分からず、ここ掘れ、ワンワン状態。でも術後目覚ましく回復した患者の前で、上級医から「お前、名医やなあ」と持ち上げられた。純粋にうれしかった。 【勤務医・35-50歳未満】

・色々な病棟で仕事をするので それぞれの病棟でかわいい看護婦さんを見つけるとちょっとうれしくなっていました(笑)。残念ながら 自分がうれしくなっただけで何もありませんでしたが…。 【勤務医・35-50歳未満】

・夜中まで病棟にいると、消灯前くらいに牛乳屋さんがプリンやゼリーを売りに来てくれて、それを患者さんに交じって買って、食べるのが唯一の楽しみでした。いい時代でした。 【勤務医・35-50歳未満】

・同意書も必要ないし、今のようにカルテ記載のきめ細かさもないし、セクハラ・パワハラなどの言葉も無いし、喫煙・飲酒もうるさくないし,古き良い時代でした。 【勤務医・50-65歳未満】



https://www.m3.com/news/general/509007?portalId=mailmag&mmp=RA170311&mc.l=210580245&eml=3f492a08f1681d66441569ec02c0b51e
4134人が門前払い 国公立大の中・後期日程
2017年3月6日 (月) 共同通信社

 文部科学省は3日、国公立大2次試験の中・後期日程で、大学入試センター試験の成績で受験生を門前払いする「二段階選抜」の不合格者が、昨年より55人多い4134人だったと発表した。前期日程を含めた二段階選抜の不合格者は、延べ7207人。

 中・後期日程は国立32大学67学部、公立11大学18学部が二段階選抜の実施を予告し、このうち国立18大学21学部、公立5大学8学部が実施した。予告した条件通りに実施していれば8835人が不合格だったが、一部で条件を緩和したり、実施を取りやめたりした。

 国立で不合格者が多かったのは、山梨大712人、一橋大530人、岐阜大310人の順。公立は奈良県立医科大674人、首都大学東京444人、福島県立医科大183人の順だった。

 後期日程は12日以降、一部公立大の中期日程は8日から実施される。



http://webun.jp/item/7352303
寄り添う医療に心込め 中原医師(高岡)陸前高田赴任1年
2017年03月11日 00:44 北日本新聞

■ただ1人の整形外科医 住民と信頼築く

 被災地の医療現場で奮闘する県人がいる。高岡整志会病院元副院長の中原慶亮(けいりょう)さん(66)=高岡市=だ。昨年4月から岩手県陸前高田市の県立高田病院に勤務している。現地は医師不足が深刻化し、同市で常勤の整形外科医は中原さんただ一人。「患者さんが自分を信頼してくれているのが伝わってくる。大変だがやりがいのある現場」と話し、患者に寄り添う診療を続けている。(社会部・野村達也)

 「この1年で7キロ痩せましたよ」。開口一番、中原さんが笑いながら話した。1日の外来患者は午前9時から午後1時までの診療時間で、40~50人。その数をほぼ1人で診る。患者は狭い仮設住宅で足腰を痛めたお年寄りや復興に関わる工事を行う作業員ら。治療を効率化するため、複数の診察室に患者を入れ、中原さんが各室を行き来することもあるという。

 陸前高田市では、唯一の整形外科医が震災で犠牲になり、中原さんが赴任するまでの約5年間、整形外科医がいなかった。「この地域の人たちはずっと思うような治療が受けられなかった。とにかく丁寧に診ようと決めていた」。体はどんな状態なのか。どのような治療をするのか。徹底的に説明した。患者もじっくりと聞いてくれた。「だからきょうも声がかれているんです」と冗談交じりに話す。

 中原さんは青森県十和田市の出身。医療過疎地域での医療に関心があり、年2回、ミャンマーへボランティアに行くという条件をのんでくれた高岡整志会病院に、2003年4月から勤務した。中原さんにとって東日本大震災の被災地で働くことは自然なことだった。現在は家族を高岡市に残し、単身赴任中だ。

 陸前高田市に来て間もなく1年。スーパーや飲食店では、よく声を掛けられるようになった。「遠くから来てくれてありがとう」「ずっとここにいてね」。畑で育てた果物を病院まで持ってきてくれる人もいる。

 4階建ての高田病院は震災の際、屋上以外は津波にのまれ、スタッフと患者合わせて20人が亡くなった。現在は国内唯一の仮設病院として診療を行っている。来春には新たな病棟が完成する予定で、今はない手術室も整備し、治療の幅を広げる。

 「体力的に医師として活躍できるのはあと1、2年」と中原さん。医師人生の集大成として被災地での診療に臨んでいる。「院内でのチームワークが上がっており、外来患者はまだ増やせる。今は別の市で処置している急患にも対応したい」「スポーツをしている中高生にけがをしないよう体のケアの仕方を伝えたい」。医療への情熱は高まるばかりだ。



http://mainichi.jp/articles/20170312/k00/00m/040/003000c
大震災6年
「防げた死」125人 震災時の宮城調査

毎日新聞 2017年3月11日 17時17分(最終更新 3月11日 17時17分) 宮城県

 東日本大震災で被災した宮城県内の病院で、通常の医療体制なら救えた「防ぎ得た災害死(PDD)」の該当者が計125人いたことが11日までに、同県の医師が参加した厚生労働省研究班の調査で分かった。医療物資の不足が主な原因で、災害拠点病院に指定されておらず、一般病床数が少ない病院で多いのが特徴だった。

 名古屋市で開かれた日本集団災害医学会で発表した。研究班は宮城県内25病院で2011年3月11日~4月1日に亡くなった868人のカルテを14年度に調べ、102人をPDDとする予備調査結果を明らかにしていた。今回は71病院の死亡患者375人を追加調査し、23人増えた。

 災害拠点病院では、震災後に入院した患者でPDDが多かった。避難所に入るなど住環境が悪化して医療介入も遅れ、病状が重篤化した人が集中的に運ばれたことにより、人員や医療物資が不足したのが原因とみられる。

 調査をまとめた大崎市民病院の山内聡救命救急センター長は「規模の小さい病院ほど災害への備えが不十分な場合が多い。災害に脆弱(ぜいじゃく)なことを念頭に事業継続計画(BCP)を整備することが必要だ」と話した。(共同)



http://tanba.jp/modules/news/index.php?page=article&storyid=2713
丹波市新病院と市センター 建築64億円で落札 開院遅れ2019年度上期に
2017年03月11日 丹波新聞

 県は3月8日、再入札を行った県立柏原・柏原赤十字統合新病院「丹波医療センター」(仮称)と丹波市地域医療総合支援センター(仮称)の建築工事を、大林・大鉄・阿比野特別共同企業体が64億2960万円(税別)で落札したと発表した。あわせて再入札した両施設の空調と衛生設備は、またも入札不調に終わった。1度目の入札不調に伴う着工遅れで、これまで2018年度中としていた開院時期を19年度上期に延期する。
 3月7日に再入札の開札があり、2企業体が応札した。大林組神戸支店(本社東京都)が代表構成員で、大鉄工業神戸支店(本社大阪府)と阿比野建設(本社姫路市)が構成員。工期は19年3月20日。再入札も不調に終わった設備は、今後の対応を検討中。


  1. 2017/03/12(日) 06:27:41|
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