Doctor G 3 のメディカル・ポプリ

地域医療とプライマリケア、総合診療などに関係したネット上のニュースを記録。医学教育、研修、卒後キャリア、一般診療の話題、政策、そしてたまたまG3が関心を持ったものまで。ときどき海外のニュースも。

5月4日 熊本震災関連 

http://news.biglobe.ne.jp/domestic/0504/mai_160504_1252675952.html
<熊本地震>新緑の役場、奔走する医師 派遣記者が見た現場
毎日新聞5月4日(水)22時41分

 ◇17日午後

 「ドンッ」。壊れた舗装にぶつかって車のタイヤが急に跳ねた。道路のひびや隆起、陥没を示す赤いコーンがあちこち置かれていたが、それでも危険箇所の全部を教えてはくれなかった。

 安否不明者の捜索が続く熊本県南阿蘇村の取材班に、弁当を届けに向かっていた。「時間がかかってもいいから、気をつけろ」と言われて4月17日昼に出発。熊本市と村を30分ほどでつなぐルートは阿蘇大橋が落ちて使えず、右回りに西原村を抜けて迂回(うかい)した。

 新緑の美しい丘を、不似合いな自衛隊の車列がゆっくりと走っている。街中から3時間以上かけて、高台にある南阿蘇村久木野(くぎの)庁舎に着いた。前日の雨は上がり、澄んだ空と高原が見渡せた。

    ◆

 庁舎1階は村職員や自衛隊員、避難者、記者が行き交い、ざわついている。入り口の机のコンセントに、避難者の携帯電話と充電ケーブルが10個以上つないであった。同僚を見つけて弁当を渡すと「高野台団地の記者に電話して」と指示された。いつの間にか取材班に組み込まれたらしい。

 「酸素ボンベを持ってきてもらう手はずが整った」。後ろの席から声が聞こえた。携帯で話していたのは村民で熊本市の病院の副院長、松本久さん(63)。自宅で本震に遭い、孤立した村の医療を改善しようとしているが、保健師などが足りないという。

 役場のカウンターあたりに日本赤十字の医師ら3、4人が所在なさげにたたずんでいる。「もう数時間待っている」。受け入れ担当の保健師が忙しいのか、庁舎に来ないという。窓口では1組の男女と職員が深刻な顔で話していたが、よく聞こえない。医師らの話し合いが始まったのは、さらに1時間以上たった午後8時だった。

    ◆

 翌朝、役場で日赤の担当者を探していたDMAT(災害派遣医療チーム)に会い、「あっちにいますよ」と案内した。打ち合わせを終えた日赤チームの車の後ろを、立野地区へ向かった。阿蘇大橋の崩落で村から分断された、最大の被災現場の一つが待っている。【田畠広景】



http://mainichi.jp/articles/20160505/ddm/041/040/146000c
熊本地震・ふるさとよ
/3 転院先見つからず焦り

毎日新聞2016年5月4日 西部朝刊

 私が4月16日午前3時18分に熊本市民病院に到着すると、対策本部は全館避難を決断していた。310人いた入院患者のうち退院可能な人を家に帰し、軽症の約60人を湖東中に移した。残った患者は約150人。そのうち人工呼吸器を装着している5人を含め、新生児集中治療室(NICU)や集中治療室(ICU)にいた30人ほどは重篤な患者だった。

 全館避難の作業には医師、看護師など360人の職員が当たり、患者の移送は、14日の地震後に熊本入りした福岡県内の三つの救急隊がピストン輸送する態勢が組まれていた。ただ熊本市内の病院には地震で患者が殺到し、転院先はなかなか決まらない。

 結局、熊本県内だけでは対応できず、福岡、宮崎、鹿児島、佐賀へと救急車は次々に向かっていく。地震で高速道路は通行止め。だから一般道を通って。

 午前4時10分、産婦人科の医師の叫び声が聞こえた。「切迫早産とか何人もいます。受け入れてくれるなら、どんどん出します」

 後日知るのだが、市民病院は県内の体重1000グラム未満の超低出生体重児の7割を受け入れる総合周産期母子医療センターだ。1階の床におびただしい数の新生児がいたのはそのためだ。転院を急ぐため、午前4時33分、対策本部は救急隊の増隊を県に要請した。

 患者を治療しながら、医師たちはつてを頼って転院先を見つけようと電話をかけまくっていた。災害拠点病院なのに、患者を受け入れられないばかりか、自分の患者を移さねばならぬ無念。悔しさ、情けなさ、すまなさ……、それら一切の感情をのみこみ、職員たちは預かった命を守り抜こうと懸命に働いていた。自宅や身内が被災した者もきっと多いはずなのに。

 午前5時50分、対策本部が最も容体を心配していた、心臓病で人工呼吸器をつけている新生児の女の子が、ドクターヘリで福岡市立こども病院に移れると決まった。

 「よし!」

 皆の声が上がった。【福岡賢正】=つづく



http://mainichi.jp/articles/20160504/ddp/041/040/022000c
熊本地震・ふるさとよ
/2 病院、全館避難を決断

毎日新聞2016年5月4日 西部朝刊

 4月16日未明、熊本市民病院は建物倒壊の恐れが高まり、入院患者らを院外に避難させる作業で混乱していた。「ここじゃ包帯巻くぐらいしかできんけん、避難所で処置してもらってくれって。できたら家に近い出水小学校に行きたいんですけど」

 手をケガしたおじいさんと足の悪いおばあさん、付き添った近所の若い女性の3人を市民病院まで運んできたのだが、出水小に向かうことになった。

 道が狭い上、避難する人たちで混雑し、車はなかなか進まない。やっとたどり着いた時には、学校は車で満杯状態。中に入れば間違いなく出られない。「実は自分は新聞記者で、取材に行かねばならない」と打ち明け、何度も謝りながら校門横で3人を降ろして大急ぎで市民病院に戻る。

 病院到着は16日午前3時18分。路上にいた患者は1階に運び込まれ、夜間出入り口付近に対策本部が設置されていた。許可を得て取材を開始する。

 聞くと、14日夜の地震では大きな損傷はなかったが、後に「本震」と呼ばれる2時間前の揺れで二つの8階建て病棟の各所で機材が倒れて割れたガラスが散乱、壁のタイルもはがれ落ち、水道管が破れて水浸しになるなど大きな損傷を受けた。どちらも築30年以上たって老朽化しており、余震で倒壊の恐れがあるため、全入院患者310人を転院させるなど、院外避難が最良と決断したという。

 5階にいたという85歳のおじいさんが震えながら言った。「眠っとったら突然揺れち、ベッドにロッカーの倒れちきたったい。ベッドん縁ん無かったら、びっしゃげ(つぶれ)て命はなかったばい」

 午前3時20分、対策本部は自力で歩ける軽症患者約60人を近くの湖東中学校に移し始めた。その25分後、市内全域断水の報が入る。軽症といえど、水分を十分に取れなければ、命取りになる患者もいる。病院に備蓄されていた水を集めて、午前4時1分、湖東中に急送した。=つづく【福岡賢正】



http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/243206
老人ホームに診療所開設へ 閉鎖する阿蘇立野病院
2016年05月05日 02時25分 西日本新聞

 熊本地震で被災し、閉鎖を決めた熊本県南阿蘇村の阿蘇立野病院(上村晋一院長、88床)が、同村河陽の老人ホーム=写真=に診療所を開設する準備を進めている。同病院は、村唯一の救急指定病院として地域医療の中核を担ってきただけに、上村院長(51)は「南阿蘇の患者のためにも診療を再開したい」としている。

 立野地区は地震被害が深刻で、村中心部とつなぐ道路などが土砂崩れで寸断。同病院も建物の一部が損壊した。ライフラインは復旧の見通しが立たず、土砂災害の危険性も残っていることから閉鎖することにした。

 村によると、村内で20床以上の病院は他になく、4カ所しかない診療所は被災で通常の医療活動ができない状態という。このため上村院長に、地元医師会や村民から村中心部での診療を望む声が相次いでいた。

 新たな診療所には、阿蘇立野病院と同じ系列の特別養護老人ホーム「陽ノ丘荘 さくら館」を活用。上村院長が熊本市の自宅から通い、看護師数人と内科、外科の診療に当たる。「外科手術や救急治療は現実的に難しく、訪問型の在宅医療に特化した診療所にしたい」と言う。

 現在は開設に向け、県や保健所と協議を進めており、4日には診療所で使う事務用パソコンや医療器具を同病院から運び出した。上村院長は「地域が分断され、村中心部の患者が孤立している。困難を乗り越え、地域医療を守り続ける使命がある。地震に負けていられない」と語った。

=2016/05/05付 西日本新聞朝刊=



https://www.m3.com/research/polls/result/94
意識調査
結果災害派遣医療、参加したことある?

カテゴリ: 医療 回答期間: 2016年4月22日 (金)~27日 (水) 回答済み人数: 2593人

 熊本地震では、九州をはじめ全国の多くの医療従事者がDMATやDPAT、JMATなどの災害派遣医療チームに参加し、被災者への支援を行っています。m3.com会員の医療従事者の皆様はこのような活動に参加したことはありますか?

災害派遣、医師の参加意欲が低調?

 熊本地震で活躍している災害派遣医療チーム。m3.com会員の皆さまの参加経験の有無をお伺いしました。災害医療にDMATやJMATなどのチームとして参加したことがある方は全体の14.7%、チーム以外で参加したことがあるのは10.6%で、参加したことがない方が74.7%と大多数でした。職種別に見ると、開業医は参加したことがない方が多く、看護師や歯科医師は参加した方が多い傾向にありました。

 今後、災害派遣医療チームに参加したいかを聞いたところ、全体の34.6%は「はい」を選択し、「いいえ」の30.4%を上回った。「分からない」は35.0%で最も多かった。職種別では、開業医で「はい」(21%)を「いいえ」(38%)が上回ったほか、勤務医で「はい」(34%)と「いいえ」(33%)がほぼ拮抗。一方で他の職種では、例えば薬剤師は「はい」が50%で、「いいえ」の回答者は14%にとどまるなど、参加意欲が高い傾向にありました。

 自由回答でお伺いした、実際に参加した方のエピソードなどは、下記の医療維新でご紹介します。

 回答者総数は2593人、内訳は開業医489人、勤務医1670人、歯科医師11人、看護師73人、薬剤師309人、その他の医療従事者41人でした。

Q1 災害派遣医療チームに参加したことはありますか?【複数回答】
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開業医 : 489人 / 勤務医 : 1670人 / 歯科医師 : 11人 / 看護師 : 73人 / 薬剤師 : 309人 / その他の医療従事者 : 41人
※2016年4月27日 (水)時点の結果

Q2 今後、災害派遣医療チームに参加してみたいと思いますか?
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開業医 : 489人 / 勤務医 : 1670人 / 歯科医師 : 11人 / 看護師 : 73人 / 薬剤師 : 309人 / その他の医療従事者 : 41人
※2016年4月27日 (水)時点の結果

Q3 実際に参加したことがある方は、印象に残ったエピソードがあれば教えてください。参加したことがない方は、今後参加するに当たって、知りたいことがあれば教えてください。

回答を集計中です。



https://www.m3.com/news/iryoishin/421881
シリーズ: m3.com意識調査
「軒並みコントロール不良」「小6生が両親の遺体確認」
災害派遣医療で印象的だった出来事<東日本大震災など>

2016年5月3日 (火) 成相通子(m3.com編集部)

 m3.com意識調査で、災害派遣医療についてお伺いしました(『災害派遣、医師の参加が低調』を参照)。実際に災害医療に携わった方の「印象的なエピソード」をご紹介します。今回は熊本地震と東日本大震災、その他の災害でのエピソードです。

【熊本地震にて】

・4/16から、DMATで出動しました。思ったように医療ができませんでした。【勤務医】

【東日本大震災にて】

・2011年の東北のJMATに参加した。薬剤の供給体制がある程度安定してからの参加だったが、DMやHTの患者さんは軒並みコントロール不良になっていた。避難所生活で不眠の方も多く、睡眠導入剤が避難所で盗難されたという患者さんもいた。避難生活が長引けば慢性疾患のコントロールが重要になってくることを痛感した。【勤務医】

・東日本大震災に参加した。事前の情報が少なく戸惑うことばかりであった。どこまでやるのか分からなかった。【勤務医】

・東北に1週間、小児科応援で参加、津波で破壊されつくした陸前高田の町が衝撃的でした。予防接種では母子手帳を無くしてしまった子たちが多かったのが印象的です。【勤務医】

・3.11 の大震災時には、実際被災地に勤務していました。待てど暮らせど支援の手はなく、院内の様々な問題を自力で解決しつつ、なんとか5日くらい経過した。そのころやっと外部からの支援の手が来た。DMATチームは1週間くらいしてから当院にも来たが、既に必要な時期は過ぎており、支援不要を告げるとさっさと帰って行った。本当に必要な時期に必要な支援のあり方を本気で考えるべきであると思う。

 熊本の地震の際に行うべき対応は、 3.11 の教訓が生かされているようには思えない。食糧や支援物資の支援とか配布がこんなに滞るとは情けない。熊本にも 3.11 被災地に出向した職員がいるはずなのに 地元に戻ってから対応に関するマニュアルなど作成することもしなかったのかと思うと悔しい気持ちすらある。行政システムとはそんなものなのだろうか。熊本にはもともと既知の活断層(今回活動した活断層)があり 全国で12番目に危険な活断層と以前から評価されていたのに生かされてないなんて…。熊本地震での報道 TV で、「 熊本でこんなことが起こるなんて思いもしなかった。TVの中だけのことと思っていた 」という話を熊本の人が言っているのを聞いて哀しくなった。【勤務医】

・東日本大震災から約1カ月後に石巻に派遣されたが、既に津波の被害のなかった地域には医療ニーズは少なかった。復旧した地域の医療機関で概ね対応できていた。【勤務医】

・東日本大震災で福島県と宮城県に出動しました。当時の菅内閣の無策無能ぶりが強く印象に残っております。政治に無関心ではいけないと思いました。【勤務医】

・東北震災で、ガソリンスタンドでの治療で、オイル臭くて目にしみて、満足に治療ができなかった。【開業医】

・津波被害は、ある標高でくっきり線を引いて、天と地ほどの差(全く無事なところと壊滅的な地域)があることが目の当たりにして分かった。舞い上がる細かな土ぼこり(ヘドロのため?)で花粉症様の酷い鼻アレルギー症状が出て辛かった。水洗トイレや下水道が使えず、缶詰の汁も御飯に掛けて食べ、捨てるものを出さないように処理するのが意外に大変だった(実際の用便は簡易トイレでしました)。若い人達は日中、自宅の片付けに出掛けるために避難所には老人と子供達しか残っておらず、働く世代がごっそり不在になる様は,ベッドタウンの日常を垣間見た気がしました。しょっちゅう余震は来るし、現在の熊本はまだまだ大変なんだろうなと振り返って思いました。【開業医】

・公立病院の代表派遣医師として5月末に東日本大震災の被災地に赴いた。小児科が専門だが、小児の患者を診ることはほとんどなく、定期薬の無くなる高齢者の診療がほとんどであった。また災害医療に役立ちたい気持ちは強いが、本当に自分が役に立つのか自問している。亜急性期には同行した整形外科先生が活躍していた。【開業医】

・東日本大震災のあと、雨後の竹の子のようにDMAT隊員が増えましたが、レベルを維持している人はそんなに多くない気がする。【開業医】

・病院内の災害対策委員をしていた時期に、東日本大震災がありました。情報の共有できる体制、あとはその意見を聞く体制を上から目線ではなく、下からの意見を吸い上げる形式を取らないと、不満は大きくなりやすいと感じます。災害派遣と災害医療は同じ考えには乗せない方がよく、災害派遣チームは、自分が被災地であったときにどう行動できるかが大切ですね。【勤務医】

・東日本大震災の3週間後に救護班で参加しました。被災地にて当時小学生6年生の男の子が祖父に連れられて両親の遺体確認をしていたのを観た時に、被災地の残酷な現実を目の当たりにして、今も記憶に鮮明に残っています。私達、救護班も食事をするのさえも罪悪感を感じましたが、カロリーメイトを沢山持参して行ったので意外と空腹感も感じずに仕事ができました。【看護師】

・東日本大震災の時、国公立系の組織・病院・大学から来る派遣チチームの中に素晴らしく献身的かつ精力的に活動している方達がいらっしゃりました。しかし、多くはありませんが、少なくもない数の方たちが、17時以降のニーズも無視できない状況があった時に「自分たちは公務員だから17時以降は働けない」「公的機関ができないことを民間がすればいい」と言われました。この状況で言うとは感心させられました。さすが公務員と。震災当事者の役場の方は、昼夜問わず対応に追われている中で正論?とはいえ、よく言えたと思いました。

 また、援助チームの入れ代わりで不在になる地区をカバーしようとすると、大学系医療機関の教授が2日後に来るので、不在の間状況が変わると大変なので、手を付けないで欲しいと。誰のための派遣か驚きました。当然その地区をカバーしたのは言うまでもありません。【看護師】

【その他の災害にて】

・12年前の中越地震ですが2回行きました。最初は単身で新潟市から翌日早朝車で迂回しながら小千谷市手前までたどり着きました。しかし、直前で警察の検問があり、私は医師で応援に行くと言っても通してくれず、仕方なく検問所をさらに迂回して田んぼの舗装されていない道を恐る恐る通り病院に到着、夕方まで手伝って来ました。2回目は救急車で4人1チームで行き、そのようなことはありませんでした。最近は行政も何度も経験し改善されたでしょうか。検問は必要と思いますが、現場の警察官にはただ誰も通すなではなく、もっと細かい指示・命令がほしいと痛感しました。また、現地ではかなりな余震があり自分自身の身を守ることも考えておく必要性も強く感じました。【勤務医】

・新潟中越地震の時は、救護班で行っているのに「CTを撮らないでいいのか」という人が何人かいた(風邪や外傷程度)が、東日本大震災で釜石・大槌に行ったときは、CT希望は一人もいませんでした。福島の影響でしょうか。【開業医】

・新潟中越での地震の時にDPATした。避難場所にて血圧を測定しながら、大変だったと労いの言葉がけを行い、困っていることはないかなど声をかけて話を聞いた。また、精神科の疾患を持っている方の安否確認を依頼されて地域の中を訪問して行った。みなさん、大変な状況の中片付けをしたりしていた。支援に出向いた時期もあり、落ち着きを取り戻していた頃であったと思う。【看護師】

・直接的な医療支援ではありませんが、2015年5月にネパール、カトマンズ付近で発生した地震後、半年以上経過してなお、問題となっているPTSD患者、ならびに被災老人の支援をする国際(主に日本人とネパール人のグループ)ボランテア・チーム(非医療者)への医療教育(ヒトとは何か?病気とは何か?老人とは何か?老人の診療のコツというような、医学部で教える基礎的な教育)を18時間ほど行いました。ネパールのような開発途上国では、災害時の超急性~急性期の支援以外に、日頃からの医療以前の安全なライフライン、住居、食糧、衛生教育の確保(こうしたインフラが整備されていないから、途上国なのですが)が、重要課題だと痛感しました。医師や医療機関のほとんど無い、医療そのものが貧弱な途上国では、保健婦などが活躍している長野県のように、日常的な地道な広報活動が有効ではないかなと思いました。【勤務医】

・信楽鉄道事故の際に応援要請があり参加したが、指揮命令系統が全く機能しておらず、器具・材料もなかったためほとんど何もできなかった悔しさが私の根底にあります。【勤務医】



https://www.m3.com/news/iryoishin/421882
シリーズ: m3.com意識調査
「通路に棺が山積み」「寒くて眠れない」
災害派遣医療で印象的だった出来事<阪神淡路大震災>

2016年5月5日 (木) 成相通子(m3.com編集部)

 m3.com意識調査で、災害派遣医療についてお伺いしました(『災害派遣、医師の参加が低調』を参照)。実際に災害医療に携わった方の「印象的なエピソード」をご紹介します。今回は阪神淡路大震災にまつわるエピソードです。

【阪神淡路大震災にて】

・阪神淡路大震災。灘保健所の通路・階段に白木の棺が山積みになっているのを見て寒気がした。六甲山の冠雪を背に、校庭で朝夕の炊き出しに静かに並ぶ行列に感動。表から見て3階建て、裏に回ると4階建ての傾いたマンションで、1階部分の狭い隙間にひしゃげた車が埋もれているのを見て、言葉を失った。瓦礫の中から引っ張られて救出された老婆が多発骨折で泣いていた。ゴム引きの体育館が汗?で濡れてすべった。配給の衣類を8枚も着込んでいる老人。パック飲料をブロックのように積み上げて家族のテリトリーを守っている人々。どれも鮮明に覚えている。【開業医】

・阪神淡路大震災。当時某県の地方公務員身分だったので県職員の撤収班として派遣された。校庭に停めた県の健診バスが我々のベースでした。そこで仕事と寝泊り。日中多忙を極めるので、仲間だけになる夜は、昼間の暗い気持ちを払拭するためか、毎晩酒盛りし、バカ話で終始。ただ寝る頃はあまりの寒さに寝付けなかった。寒くて眠れない経験をしたのは初めてだった。そんな日々を送る中で、家族から突然携帯に連絡があったのは「あなた、東京が大変なことになってる!TVがあったら早く見て!」それはオウム真理教のテロでした。日本はどうなるの?と思った瞬間だった。

 一方で他県と撤退日を同じにするため同行した県職員は、毎日他県どうし情報を収集し探り合い、奔走していた。公務員とはこんなことも同じにしないと許されないのかと思った。持ち込んだ医薬品は一つ残らず配布せよとの命令だが、1日でも早く無くなったらダメ、湿布一枚余らせてもダメということでXデイに向けて調整した。撤退日の撤退時間にドンぴしゃり合わせて全ての医薬品を吐き出し一切の残り物をなくし、他の県と一斉に撤退した。都道府県の医療支援が終わった日だった。避難所の人たちから感謝の言葉と手を振り見送られる中でバスは出発。通りに出てからは車窓から街並みを眺めた記憶がないので、疲労困憊し寝てしまったのだと思う。その日は大阪で一泊。迎えに来てくれた県職課長クラスの人が慰労こめて居酒屋で奢ってくれたのに、くだ巻いてからんだのは覚えている。【開業医】

・阪神大震災の時に日本精神神経学会からの要請で、震災後数日で行きました。しかし、待機場所があまり周知されておらず、私が滞在した3日間には数人の方しかいらっしゃいませんでした。【勤務医】

・阪神淡路大震災の発災から4日後、1月21日に元職場の救急車を南港から引き受けて倒壊した高速道路脇をガタンゴトンと目的地まで行きましたが、カメラ好きの私も唯々唖然・呆然として1枚の写真も撮れなかったことを思い出します。また、まだまだ煙があちこちで上がっておりましたので、撮ってもいけなかったと思います。救急外来で、余震で倒れてきた塀に顔面を挟まれ、下顎骨複雑骨折で物理的呼吸困難・障害を来した方に、咄嗟に単独にて気管切開をしました。安堵感に包まれた救急室の風が背後から押し寄せて来るのを思い出します。今や当たり前でしょうが、行くなら被災者に決して迷惑をかけずに、自身の身を守ることは当然ですが、独りになった時でも行動できる態勢が取れるかどうかを熟考してから走ってほしいと思います。

 TV等の報道番組で見る臨時特設避難所の体育館などは、自分が見た状況とは雲泥の差でした。屈強で頑丈そうな輩に限って、暖かそうな体育館のど真ん中にダンボールを囲い込んで陣取っていて、か弱そうな高齢者や乳飲み子を抱えた若いご婦人方は寒そうな端っこに追いやられていた実情は行ってみないと見えてきません。体育館の端でコンコンと咳をしているご高齢の方達の診察をし、重症な方は救急隊員に連絡し近々の医療機関に搬送していただきました。南から行ったので、非常に寒く感じましたが、オーバーズボンの持参は正解でした。自身が病で倒れたらボランティアもできません、服装も含め身辺の保護も非常に大切だと思います。【勤務医】

・阪神淡路大震災のときに、自分の所属している医療機関から参加(1週間)しました。木造建築はほぼ壊滅状態。震災後7日目くらいの時だったので、重症者というより内服薬が切れた患者の状態悪化などが多かった。【開業医】

・阪神淡路大震災で3週間経過後に約2週間医療支援に携わりました。少し落ち着いた状態で主に避難所での支援でしたが、道路は渋滞しており車での移動は大変で、可能ならヘリを装備した組織の下に参加した方がよいと思います。【開業医】

・阪神大震災後すぐ病院サイドが炊き出しと内科診療を申し込んでくれた。1カ月後に行けることになり、私は小児科診療医として出務し、他の外科などの事務関係ナースが炊き出し体として同日に出務した。ほとんどが片付けで昼間は不在であった。でも喜ばれたし、 大変さが少しでも分かったので良かった。大阪から神戸までの短い移動であったが、今回は遠方故に休みがなく、また以前よりは老齢であり勤務を休んで(行くのは)難しい。また能力的にもより実践救急能力が要求されているのでDMATのようでないといけないと思った。【勤務医】

・阪神淡路大震災で淡路島に2週間派遣されました。既に1カ月経過しての派遣だったので、緊張感はなく島の方との触れ合い、交流が非常に楽しかったです。毎日、新鮮な魚や地元の料理を差し入れしてくれ、太ってしまいました。【勤務医】

・阪神淡路大震災の時はクラッシュ症候群の患者や肺炎、東北の時も老人の肺炎などが多かったことを覚えています。【勤務医】

・阪神淡路大震災に県から2週間派遣されました。内科医としては慢性期の疾患の管理で内服薬を処方することくらいですが、検査などがほとんどできない状態でしたので病院機能の早期復旧が必要と感じました。【勤務医】

・阪神淡路大震災の際に神戸市東灘区の病院に6カ月いました。今振り返れば、災害医療のニード・デマンドは超急性期・急性期・亜急性期で刻々と変化してゆくことを実感した良い経験だったと思います。【開業医】

・神戸大震災の後に避難所で福岡県の代表として医療活動をしたが、その経験や反省を聞き取ることを福岡県がしなかったことが残念だった。出発の時にそういう機会を作っていただけるように申し入れはしていたのだが…。【開業医】

・阪神大震災時、避難所の学校に一晩当直派遣。体育館の避難者の生活は、テレビを見ていると、今も同じよう。【勤務医】

・阪神淡路大震災のとき、氷点下の中、寝袋で寝ました。体育館でずっと過ごしている被災者の方々の苦労は計り知れないと思いました。【勤務医】

・阪神淡路大震災で3泊4日のボランティアに参加した。避難所で宿直していたとき、一人の男性がやってきた。「具合が悪いのか」と対応していたところ、各製薬会社から無償提供されていた薬(限りあるものなので、少量ずつ使うよう指示されていた)を「あれもほしい」「これもほしい」「家族が大人数だから、大瓶の方を」などと袋いっぱいに詰め込んでいった。しかも「後で取りに来るので預かってほしい」と言うので、どちらの避難所か尋ねると、「オレ?ボランティアや!」だって!しかも取りに来たのは仮眠を取っていた夜中2時過ぎ。【勤務医】

・阪神淡路大震災の時参加しました。神戸市長田区の保健所に寝泊まりしたのですが、寒くて大変でした。ダンボールを敷いて寝たらとても暖かったのが印象的でした。【勤務医】

・神戸の震災の後、仮説の診療で時間外外来に準じて診療手伝いしました。少しでも同じ苦労をすると何とかしたい気持ちが残ります。【勤務医】

・兵庫大地震時は1週間は風呂に入れなかった!精神科として診察に従事したが、引きあげた後、かなりの期間が経ってから、診察した方からお礼の連絡が勤務先の病院へ手紙が来た。『心の支えになった』と。【勤務医】

・阪神淡路大震災発生時、国立病院に務めていました。3月初旬だった?記憶が定かではありませんが、被災地へ医師が派遣されることになりました。私は行きたかったのですが、クジで決められハズレでした。派遣された先生が帰ってきて、一番の問題は・・・トイレだったとのことでした。納得です。被災地のみなさん、月並みで恐縮ですが・・・頑張ってください。以上、当時を思い出し心を込めて書きました。お気に召さない方は、どうぞご容赦を。行きたい医師が行くべきで私も行きたかったです。がんばれ熊本、大分のみなさん。私、ルーツは南九州です。【開業医】


  1. 2016/05/05(木) 08:43:04|
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