Doctor G 3 のメディカル・ポプリ

地域医療とプライマリケア、総合診療などに関係したネット上のニュースを記録。医学教育、研修、卒後キャリア、一般診療の話題、政策、そしてたまたまG3が関心を持ったものまで。ときどき海外のニュースも。

5月1日 熊本震災関連 

http://mainichi.jp/articles/20160501/ddl/k43/040/177000c
熊本地震
避難者を守れ! エコノミークラス症候群、益城で400人を検査 /熊本

毎日新聞2016年5月1日 地方版 熊本県

 熊本地震で車中泊や避難所で生活する被災者のため、益城町のグランメッセ熊本に30日、エコノミークラス症候群の検査会場が設けられた。日本循環器学会の主催で4月29日もあり、熊本市民病院の医師や看護師ら約40人が両日で被災者計約400人を検査した。

 医師らが被災者の生活状況や持病などを聞き取り、脚の血管内に血栓がないかをエコーで検査。検査を受けた被災者の約5%に血栓が見つかり、1%は重症の疑いがあるとして病院での診察を勧めた。父(88)と検査を受けた熊本市東区の女性(60)は「9日間も車中泊をしたので心配でしたが、父も私も問題ありませんでした」と安心した様子だった。

 熊本市民病院の佐藤幸治医師は、予防策として脚のマッサージやこまめな水分補給を指導していた。「エコノミー症候群から検査を受けられない避難者をいかに守るかが課題」と話した。【今手麻衣】



http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/news/20160501-OYS1T50027.html
特集 熊本地震
拠点の熊本市民病院破損、重症妊婦・新生児県外に搬送

2016年05月01日 読売新聞

 熊本地震の影響で、熊本県内で早産の危険のある妊婦や先天性疾患を抱える新生児の多くを、県外の医療機関に搬送せざるを得ない状態になっていることが分かった。総合周産期母子医療センターに指定されている市立熊本市民病院(熊本市東区)が被災して入院診療ができなくなったためで、県外搬送が必要な重症妊婦や新生児は今後1年間で約130人に上るとみられるという。県などは連休明けにも会議を開き、対策を話し合う。

 同病院は4月16日未明の本震で1階ロビーの天井や外壁の一部が破損し、約310人の入院患者全員を避難させた。うち38人が新生児集中治療室(NICU)などに入院していた新生児で、帰宅した1人を除き、熊本大病院(同市中央区)や鹿児島市立病院(鹿児島市)など8施設に搬送された。早産の危険のある妊婦も福岡市内の医療機関などに搬送された。

 市民病院は同28日に外来診療を一部再開したが、入院再開の見通しは立っていない。新生児内科部長の川瀬昭彦医師によると、県内では熊本大病院も同センターに指定されているが、体重1000グラム未満などの超早産児の多くは設備やスタッフなどがそろった市民病院で診ている。今後1年間で重症妊婦100人、重い心臓病などの新生児20~30人の県外搬送が必要になるとしている。

 東日本大震災でも総合周産期母子医療センターが長期間機能不全に陥った事例はないという。近藤裕一副院長は「県外での出産や新生児の入院は母子や家族に大きな負担がかかる。県などと早急に対策を協議したい」としている。



http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201605/20160501_33029.html
<熊本地震>岩手県が医療支援へネットワーク
2016年05月01日日曜日 河北新報

 岩手県は4月26日、熊本地震への中長期的な医療救護支援を進めるため、県内の医療や福祉団体でつくる「いわて災害医療支援ネットワーク」を正式に発足させ、今後の活動を協議した。
 県や医師会、災害福祉広域支援推進機構、臨床心理士会など15団体が参加する。被災地の要請に速やかに応えるため、各団体の活動の情報共有を図る「情報連携会議」と医療救護チームの派遣調整を行う「調整会議」を設けた。
 被災地に派遣された岩手県の災害派遣医療チーム(DMAT)などの活動報告もあった。いわて感染制御支援チーム(ICAT)はノロウイルスの集団感染が発生したことを挙げ、感染症対策など避難所の実情に応じた支援の必要性を指摘した。高齢者や障害者をケアする福祉避難所が必要との意見もあった。
 県保健福祉部の佐々木信部長は「医療、福祉関係者が情報を共有し、被災地に寄り添った支援活動をしていきたい」と話した。



http://www.yomiuri.co.jp/local/fukushima/news/20160430-OYTNT50100.html
熊本地震での医療支援報告
2016年05月01日 読売新聞 福島

 熊本地震で熊本県益城町と南阿蘇村に入り、避難所8か所で避難者にエコノミークラス症候群の予防法を教えたり、生活状況を調べたりした福島赤十字病院(福島市)の医師や看護師ら7人が30日、病院に戻り、現地での活動を報告した。

 25日に出発し、2町村の災害対策本部には、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の教訓として、名簿を作って必要な人に医療支援を続けられるようにすることなどを助言したという。同病院は4日に第2陣の7人を派遣する。



http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/242649
村唯一の救急病院が閉鎖 南阿蘇 道路寸断、安全確保できず
2016年05月01日 20時24分 西日本新聞

 熊本県南阿蘇村で唯一の救急指定病院だった同村立野の阿蘇立野病院(上村晋一院長、88床)が、熊本地震による被災のため閉鎖することを決めた。約150人のスタッフは全員解雇するという。

 同病院がある立野地区は地震の被害が大きく、土砂崩れで同地区と村中心部をつなぐ国道57号が寸断されたため、入院患者を他の医療機関に搬送後、休診していた。病院によると、現在もライフラインが復旧せず、土砂災害の恐れもあり、安全が確保できない状況だという。

 同病院は村唯一の総合病院で、村内の医療機関は診療所のみになる。県によると地震の影響で休診する医療機関は少なくないが、20床以上の病院の閉鎖は把握しておらず、県内初とみられる。

 今後は別の場所での診療再開を目指す。通院患者は系列の上村医院(同村下野)で受け入れ、在宅診療を強化する。県医療政策課は「救急患者は他市町村でカバーすることになる」としている。

=2016/05/01 西日本新聞=



http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/cadetto/tuusin/201605/546760.html
崎長ライト、熊本へ(その3)
阿蘇地域のICTリーダーに
崎長ライトの一番長い日の始まり

崎長ライト
2016/5/2 日経メディカル

 災害医療支援チームのリーダーとして熊本に入り、阿蘇へ向かった崎長ライト氏。待機で始まる2日目ですが、事態は急展開していきます。(編集部)

 このたびの熊本の地震で被災された方に心よりお見舞い申し上げます。
 このコラムは医療情報や被災情報を正確に発信するという性格のものではなく、被災地での医療支援で起こったこと、見聞したことを「崎長ライト」という物書きの視点で描くものです。完全なノンフィクションというより脚色を含んだ物語です。災害医療を将来担う若い医師や医学生の役に立てば幸いと思い、書いています。第2話も「読んだよ、頑張って書いて!」と熊本で頑張っている仲間から連絡がありました。
 「災害医療は功名を競うものではない」との批判もあるかと思いますが、「続きを読みたい」という読者も多数いるようですので、継続いたします。なお、文中敬称は略しました。

 今回の震災や先の大震災に遭われた方々を思うと、僕の人生など平穏無事なものだと思う。しかしながら、それなりに紆余曲折、挫折続きで、やっと30歳で医者になった。医者になってからも、何度も壁にぶつかり、辞職届を書いたこともある。基本的に、ヘタレな自分といつも向き合わなければならない。そんな僕にとって、間違いなく人生で一番長い日だった一日、2016年4月24日はゆっくりと始まっていた。


 長崎大学災害医療支援チーム第2班として熊本に入った2日目。朝6時半に宿を出た僕たちは、7時すぎには阿蘇医療センターに到着。事務局の横の部屋で待機することにした。宿から差し入れてもらったおにぎりを事務官の出来隆博が配る。
「それにしても、多いですね」
 待機室は人であふれかえり、北海道から沖縄まで、各地の看板を背負ったユニホームが差し込む日の光で輝いていた。ざっと見積もって、40~50人はいるだろう。この日は日曜日だから、昼に到着するチームも加えると100人は軽く超すはずだ。チームの紅一点、看護師の久志(ひさし)愛美が期待と不安のハーフ&ハーフという感じでつぶやく。
「どんな仕事なんでしょうね」

 ここにいるチームは、4月19日に熊本県より全国知事会当てに派遣依頼が出たことで組織されている。県庁で昨日見た組織図によると、僕たちの指揮系統は…熊本県医療救護支援本部→救護班管理→阿蘇保健所→阿蘇地区災害保健医療復興連絡会議(通称、ADROと呼ぶらしい)→事務局(阿蘇医療センターに設置)→全国から集まった支援チームとなる。各チームは事務局の指令で動き、勝手に行動することは禁止されている。もちろん、独立系(1~数人のグループ)や国境なき医師団などのNGOは、この枠組みの外で独自の判断で動いている。
 チームのムードメーカー、ICU看護師の水田芳博は看護部長から賜ったチョコボールの箱を拝みながら封を開き、1個を口に入れて言った。
「仕事ありませんでした!って、帰ったら、看護部長から怒られるだろうなあ~」
 皆、おにぎりが喉につまる。

先生は17時に帰ってください!
 4月24日午前7時半から阿蘇地区災害保健医療復興連絡会議(ADRO)が開催された。県庁担当や阿蘇医療センター長の連絡の後の事務局報告によると 阿蘇地域には避難所42カ所に、把握できているだけで2615人の被災者の方がいるという。阿蘇市から南小国町周辺の医療機関は、9カ所中3カ所がほぼ平常に近い診療体制。6カ所は何らかの支障を来たし、平常の状況ではなさそうである。
 8時半に各チームリーダーが招集された。
 僕は内科医の森良孝にリーダーを任せたが、念のため、後ろの方に立っていた。背の高い事務局の手配係(僕は勝手に「手配師」と名付けていた)がやってきた。ざわついている部屋の中で、低く太い声がゆっくりと広がる。
「阿蘇医療センターの本日の準夜ERをやってくれるチームはないでしょうか?」

 少し間が空いた。
 チームにはいろいろ事情がある。今日帰るチームもいれば、僕らのように遠くに宿を取るチームもある。ERは何が来るかわからないが、基本は内科系が多い。外科系チームは躊躇するかもしれない。もしかしたら、誰もやらないかもしれないと思ったとき、前の方で手が上がった。
「やります」
「ありがとうございます、えっと~」
「長崎大学第2班です」
「それでは、17時から0時までのERをお願いします。詳細は、医療センターのERで聞いてください」
 よくぞ言ってくれた、森良孝。と、拍手を送りたかったのだが、すぐに不安がよぎった。僕は普段から週に2回はプライマリケア外来をやっているので、ERをすることにやぶさかではないのだが、電子カルテの問題があった。紙カルテで育った人間が、他の病院のカルテ操作にすぐ慣れることができるだろうか……。
「先生はいいです。17時に帰ってください」
 控室に戻った森は、結構強い口調で僕に言った。
 役に立たないと思ったのかもしれないが、たぶん、僕の体調を気づかってだろう。どうも、森の上司の代謝内科チーフ、阿比留教生から言い渡されたような節があった。「あいつは年だから無理させるな」と。

 阿比留とは幼馴染である。だから、優秀なスタッフを送ってくれたのかもしれない。立派な後方支援だ。小説「フルマッチ」に登場した女傑・長谷敦子(救急医)も派遣メンバーの代わりに長崎でたくさん当直をこなしている。小畑陽子(医療教育開発センター、内科医)たちも僕の代わりに50人ほどの研修医の世話をしてくれている。総務課をはじめ事務スタッフもいろいろ調整してくれた。沢山の人たちの後方支援で、僕らのチームだけでなく全国のチームがここに立っている。
 その人たちのためにも、何かの役には立ちたい。しかし、森の「帰ってください」に対して、「いや、俺も一緒にやるよ」とは言わなかった。基本、僕はヘタレの変わり者である。これだけの人がいたら、医者としての出番はない。全国の精鋭部隊だ。僕の臨床能力は下から数えて何番目……。それに統制された組織にいる以上、勝手にボランティアに行くことも御法度だし……。何ができる?
<あれだ! 「崎長ライト、熊本へ」>
 すぐに医者から崎長ライトに変身し、取材を申し込んだ。

仕事の半分は待機
 伊藤宏保。ADRO事務局リーダー、厚生連高岡病院救急科医長。
 銀縁の眼鏡をかけた細身の人で、甲高い声を出しながら、縦横無尽にフロアを動き回る。
「伊藤先生、すいません。今日一日、先生の後ろに張り付いて取材させてください」
「え~、いいんですか? こんな僕でよかったら!」
 彼はにこやかに笑うと、また向こうの方で2~3人と話し出す。僕は「また後で」と言って、控室に戻った。チームのムードメーカー水田には、手配師が別の仕事をくれていた。
「阿蘇温泉病院で、看護業務」
 どうやら、病院の支援も多いようだ。
 阿蘇の医療機関で働く多くのスタッフも当然被災している。スタッフは減り、患者は増える状況にあるのかもしれない。
「マンパワーと笑いを届けてきます!」
 水田は引き締まった顔つきになり、やや緊張して出て行った。

 チームの紅一点、看護師の久志は先輩が出ていったためか、準夜のER業務について考えてるのか、不安げな表情で引き継ぎメモを読んでいた。出来は淡々と、お金の計算やら、僕たちの後に続く第3班との連絡をしていた。
「森君、ふたりを連れて、一度宿に帰ったら? 休憩しないと夜がもたないよ」
 森は頑なに拒んだが、ここは僕が押して、お昼に休憩で宿に戻らせることにした。しかし、森も出来も久志も結局は一度も宿に帰ることなく、日付が変わるまで休まず働くこととなる。
 チームは次々に出動していったが、フロアには、まだいくつかのチームが残っていた。中にはイライラして、携帯の向こうに大声で愚痴る人もいた。無理もない。テンションマックスで看板を背負ってきたのに、何もせず待つのだから。

「仕事の半分は、待機ですから」
 第1班の安芸敬生の引き継ぎの言葉を思い出した。
 彼は今回、DMAT第1陣と医療支援第1班、2回も派遣されている精鋭である。冷静に待てる精神力が資質として必要なのだろう。でも、せっかちな僕はダメだ。ウロウロと事務局をのぞいたり、貼っている地図や資料を読んだり、事務局リーダーの伊藤の手が空いた隙を見て「今何やってるんですか?」と話しかけたり、コーヒー(災害用の自動販売機を無料で、医療センターがスタッフに提供していた)を飲んだり(美味しかった)、待合室の非常食(誰でも食べれる)をつまんだり。缶詰めのパンは美味しく、メープル味は特に美味だった。とにかく、落ち着きなくウロウロしていた。
 そんな時に事件が起きた。

9時51分、人生最長の日が始まった
 控室のドアが開き、数人の男性がダンボールを抱えて入ってくると、バンバンバンと隅に重ねた。テレビクルーも大きなカメラを抱えて入ってきた。
「誰か、★※▲■」
 遠くで何を言っているか聞こえなかったが、ひとりが何か言うと、リーダーの伊藤の顔がこわばったように見えた。僕の耳にはかろうじて「感染」「ICD」という言葉が入ってきた。ICD? 聞き覚えがある懐かしい響き。

 女性の事務局スタッフが慌てて走ってきた。彼らのひとりは、持ってきた段ボールを開けて、中のものをひとつとり出して、説明をしていた。戸惑う女性スタッフは、ただうなずいているように見えた。僕はおそるおそる近づいて行った。僕の後ろには、森と久志も何事かと続いた。しばらくすると、カメラクルーのまぶしいライトは消え、彼らは颯爽と去っていった。
 結局のところ、彼らが何者で、なぜテレビも来たのかは誰も把握していなかった(おそらくは感染症系の学会の方か、業者の方の善意の寄付だろう)。そんな事はよくあるようだ。特に避難所では、誰かが段ボールを置いて、いつの間にか増えていることがあるらしい。

 伊藤と女性スタッフが段ボールを見つめながら、「困ったな~」という顔で腕組みをしていた。その段ボールの中に、あれがあった。僕らのチームが探していたあれだ。
『ノロキット』

「ICDいるかなあ~」。伊藤はつぶやき、大きく叫んだ。
「どなたか、ICDはいませんか!」
「はい、僕です」
 僕は、伊藤の横で手を上げていた。
 面倒なことをしょい込む予感はしたのだが、森が果敢に手を挙げた姿に影響されたのか、ヘタレな僕の手が挙がっていた。
「ああよかった~、長崎の先生ですね。ICTのリーダー、やってくれません?」
 一瞬、間を置き、伊藤からもらった言葉をそっくりそのまま返した。
「え~、いいんですか? こんな僕でよかったら!」
 ここから、僕の一番長い一日は始まったのだった。

 ICDとはInfection Control Docterで、感染予防や拡大をコントロールする医師。ICTとは、Infection Control Team。
 なぜだか、僕はそのICDの資格を持っている。しかし、僕の名刺の裏に、その資格はとうの昔に載せていない。10年ぶりぐらいに名乗った気がする。
 伊藤の頭の中には、ICTのTo Do Listが既に出来上がっている。
「阿蘇全地区の避難所などを統括するADROのICTを作ってください。まずは、全地区で統一された感染拡大を防ぐマニュアルが必要ですね。それもちゃんとしたものが必要です」

 冷汗が出て、足がすくむ。ことの重大さがすぐにわかったからだ。ノロウイルス感染症のアウトブレイクが起きると、大変なことになる。被災者はパニックになるだろう。パンデミック……。それを防ぐ責任が、ヘタレの自分にある。実はその日、「阿蘇の避難所でノロ集団感染?」と一部マスコミが報道していた。
 伊藤は次のタスクに移るために、その場を移動する。
「よろしくお願いしますね、先生」
 任務開始が午前9時51分。
 なぜここだけ時刻を細かく把握しているか。長崎大呼吸器内科の石本裕士(第3班メンバー)に助言を求めるべく、すぐにSOS発信した履歴が僕のスマホに残っているからだ。


  1. 2016/05/02(月) 05:41:11|
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