Doctor G 3 のメディカル・ポプリ

地域医療とプライマリケア、総合診療などに関係したネット上のニュースを記録。医学教育、研修、卒後キャリア、一般診療の話題、政策、そしてたまたまG3が関心を持ったものまで。ときどき海外のニュースも。

3月22日 3.11震災関連 

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シリーズ: 東日本大震災から5年
【宮城】「医療者用の支援物資を」「月に一度でも被災地考える日を」◆Vol.15
被災地の医師からメッセージ

医師調査 2016年3月22日 (火)配信高橋直純(m3.com編集部)

Q 東日本大震災からの復興に関して、行政や医療界に望むこと、広く知ってもらいたいことなどがあれば、ぜひともご記入ください。

【宮城県】


・医師の数を増やす必要はない。

・復興担当大臣は東北に常在すべき。

・特にありません。みなさん頑張ってきたし、今も頑張っていると思います。

・公営住宅や住居をたくさん作っていますが、本当に必要か疑問です。必要かどうか何度も再調査してから柔軟に対応してもらいたいです。

・震災時に情報を共有できないということは 世間が悲惨な状況を知るすべがないということです。全ての病院に衛星回線を国からプレゼントするのが、最低限必要な大至急の課題となっていると思います。

・県庁所在地ばかりに資材・金銭を投入せず、田舎での人員不足に対処してほしい。

・マイナンバー制度について反対の意見も多いが、マイナンバーと医療機関受診、薬剤処方歴などの紐づけは必要。災害時に、過去の医療行為検索や服薬状況把握がスムーズにゆく。

・5年経ったからと言って、復興しているわけではなく、被災地は震災前とは全く別のものになってしまった。

・震災直後、割と患者支援物資は届くのですが、医療従事者(医師・看護婦等)への支援がほとんどない。バナナとお茶で泊まり続けた医者が何人もいます(それでもバナナの支援はあったのですが)。医療従事者は買い出しに並ぶこともできないし、場合によっては病院から出ることもできません。普通の勤務のつもりで病院で働いて、震災のため家に帰れず泊まり込んで働いています。下着とか毛布とか食料とかの支援が必要だと思います。病院に備蓄されているものはほぼ患者のためのものですし、医療従事者のためのものといっても患者に使ってしまいます。支援物資こそ、医療従事者へと限定して届けてほしいものです。

・東北メディカルメガバンク機構は、ただ研究をしたい、ポスト増やし、予算取得のみ。スタッフは震災を経験していない全国からの研究・ポストを求めてきた方が多く、心ない会議がなされている。

・今なお、仙台市の街中でも仮設住宅で冬を越さざる得ない人々が多数いること。

・国公立病院等には支援、援助はあるが個人診療所には何も無く、勤務医になるしかなかった。産業医認定等の講習単位の軽減処置が無く、認定医の資格を失ってしまった。

・よく復興が遅いと行政に文句を言う人がいますが、当たり前です。何十年もかかってできた町並みがそんなにすぐに回復できるはずがない。

・災害医療は事前にプログラムされた診療を行うことではなく、新たな課題に対応していくことが求められる。行政は規程に当てはまるかどうかではなく、必要かどうかで判断し、行動していただきたい。医療者は、災害医療科という診療科があるのではなく、医療の基礎的な部分であることを認識して身につけてほしい。そのために、災害医療をやる医療者もその専門性にこだわらないようにしてほしい。

・特に望むことはない。ただ、震災でいまだ仮設住宅に住んでいる方々が多数いることを忘れないでいただきたい。福島第1原発もいまだ収束が見えない状況も同様。

・宮城県の人でさえ震災は過去のものとなっています。津波被災地域や原発被災地域の住民の現実を考える日が、月に一度でもあると良いかと思います。

・金より仕事を与えて、住民のモチベーションが上がるようにしないと乞食が増えるだけだと思う。

・むやみに変な専門家ばかりを作らないように願います。

・公立病院からの支援で、個人病院は後回しだった。

・震災発生直後から薬の流通が一時的に停止したため、処方が不十分になってしまうことが見られた。流通を止めないよう調整を望む。

・継続性のない医療支援は百害あって一利なし(短期的~3カ月ぐらいの解決のみ)

・東日本大震災は津波被害です。沿岸から離れたところは、もう何もなかったような生活です。しかし、被災地に行けば仮設住宅に住む方々は沢山いて、一人暮らしの高齢者の方が大勢います。孤独死や生活不活発病などの対策が一番と考えます。

・東京一極集中を避けるべき ドイツなどの都市が分散化しているような状態が望ましい。一方で、医療についてはその分散化した都市の中でセンター化を行うべき。過疎地に高度医療設備は不要。それよりも搬送設備の充実。それにより高度医療設備を必要とする医師も集中化させる。

・やはり現在の問題の焦点は福島の沿岸地域の復興だろうと思います。

・復興と称して、なぜ遺伝子の研究が必要なのか?(=メディカルメガバンク)・メディカルメガバンクは明らかに研究事業であるのに、若手医師派遣のスキームも組み込まれ、住民の研究参加と医師派遣がバーターになっているといってもいい状況である(少なくとも首長はそのような判断をしたと推定される)。これは倫理的に許されないと思うが、そのことがメディアに取り上げられなすぎであると思う。大学医局は若手医師派遣を沿岸にシフトしている印象。内陸の病院の医師不足が深刻している。登米市立病院や公立刈田病院といった内陸の基幹病院の医師不足が深刻化している。これらが位置する自治体は、メガバンクの研究対象となっていない。これを偶然と説明できるのか??何も期待しない。

・ヘリコプター医療に慣れる必要がある。ヘリ救助方法も臨機応変にできる法整備が必要。

・マンパワー不足は明らかだが、派遣される医師自身の人生やQOLを考えると、報酬をあげるなど何らかのインセンティブをつけないと難しいと思う。

・原発で作業している人たちの中に、明らかに放射線障害と思われる症状群で亡くなる人がいる。これを無視すべきではない。彼らが働かなくなれば、原発の廃炉は全く進まないので、必要な人たちではあるが、彼らの疾病に対してきちんと保障すべきである。福島県や宮城県丸森町など、放射能汚染の可能性のある地域に対しきめ細かく、長く、対応してほしい。

・津波被害を受けた地域は高齢化が一気に進んだわけで、単なる復旧はほとんど意味がなくなっている。住民が戻れるかどうか分からない状態で医療だけ何とかしようというのは無意味である。

・老健施設の増加。人口分布の把握。地元の再建の意思の確認。病院再編成。在宅の推進 年齢構成の変化。

・震災から5年、不登校やメンタルケアの必要な患者が増加しているが、専門家も少ないので、対策をしてほしい。

・それ以前に、国民が医療に対してコスト意識を持ち、自分がどの程度の負担をする意思があるのか、自覚する必要がある。

・プライマリーケア医は幅広い疾患を的確に診断して専門医に送らなければならないが、きちんと医療機器を備えているところが少ない。

・その場かぎりのご機嫌取りの政策や型通りの政策ではなく、現状に併せてほしいとは思う。

・震災前から進んでいる医療過疎(「医療崩壊」と呼んでいますね)と超高齢化に備えてスーパーナースを多く育てる必要がある。患者・医師・看護師から頼られる頼もしい看護師を東北の隅々まで、との思いで教育に取り組んでいます。特定行為研修制度に多くの批判があるようですが、要は「どう生かすか」であって、広く知ってもらえればと考えています。教育は100年の計ですので多くの医師とともに取り組んでいきたいと考えています。

・献血に関しては、被災地での献血者が増えた印象がある。受けた援助に対する感謝の気持ちを献血で示すとの気持ちがあるのであろう。

・総合的に診られる医者であってこその専門医であると思うが、今の医療の方向性は専門性の方向に偏在している。

・被災地域による復興格差は拡大の一途をたどり、単身高齢者や障碍者など生活弱者への援助が続々と打ち切られ、社会からの排除が静かに進んでいるように感じます。彼らが自立して生きがいを見つけることができるような援助を期待しています。

・医師の確保につきます。

・市民病院への期待や要望を市内の医療関係者などに意見を求めたりしていない、と思う。本当にでき上がるのか何をしてくれるのかのアナウンスが聞かれない。日赤は外来の混雑異常で救急受け付けてもベッド満床状態つづいている。

・今の時点では、診療所では院内処方の推進が大事。電子化はバックアップ体制が不十分なら何の利益にならない。震災直後は公的な医療機関にのみ補助金など配分しようとしたが、県医師会の強力な働きかけで診療所、私的医療機関にも配布するようになり、それは大きな効果をもたらした。

・医療を支えるインフラや業種の緊急時の対応策を考えて欲しい。地域の薬局の倉庫には薬があるのに使えないで困るケースがあり、一方で取り残される患者は多く、病院と患者だけではその地域で医療を続けられない現状がある。



https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20160318-OYTET50030/
編集長インタビュー
石木幹人さん(3)地域医療の再建 震災影響で認知症も増え

016年3月21日 読売新聞

 震災の翌月、岩手県立高田病院は、スタッフの避難所兼救護所としていた米崎コミュニティーセンターで、本格的に一般診療を再開した。3月下旬には、震災直後から自身も被災者なのに休みなしで働いていたスタッフに休暇を取らせ、4月4日に改めて全員集合した。震災前に行っていた一般検査はほぼすべてできるようになり、調剤薬局も備えた再出発だった。その頃には、地元の開業医や外からの応援医療者により、市内7か所で八つの救護所が運営されていたが、その中心となる高田病院の本格再開だった。

 「同じ医療圏の中で、高田病院で受け入れられない患者が殺到して疲弊している基幹病院、大船渡病院の負荷をどうにかしなくちゃいけないというのが、自分の中ではかなり大きな課題でした。高田病院で一般診療を再開するには、検査と薬局が欠かせない。だから検査科と薬剤科のスタッフの尻をたたいて、鬼のような院長だったと思います」

 陸前高田と盛岡を何度も往復しては、行政と事務手続きを急ピッチで進め、検査科のスタッフと検査機器を集めるのに奔走した。調剤薬局を作るために、薬剤科のスタッフや薬剤師会と話し合いを繰り返した。

 「当時は、『なんでこんなに時間がかかるんだ!』と腹を立てていたけれど、今振り返れば、あの震災から1か月足らずで一般診療を再開するなんてすごいことだった。大船渡病院の外来数も、4月には震災前とほとんど同じぐらいに落ち着いたのです。地域医療は、一つの病院のことだけを考えたらいいわけじゃない。地域全体のそれぞれの病院の役割や負担のバランスも考えなくちゃいけない。だから、みんなでよく頑張ったなと今は思いますね」

 再集結の日に、病院のスタッフ全員で、これからどういう診療を目指していくのか、グループに分かれて話し合いをした。当面の活動方針として、〈1〉入院機能を持つ仮設病院の早期再建〈2〉訪問診療の充実〈3〉住民の健康管理(保健師活動)への参加〈4〉心のケアの充実――の四つを大きな柱と決めた。どのグループも共通して掲げた目標は、「入院機能を持った仮設の病院」だった。

 「みんなが入院機能を必要だと思っていることを最初に確認したから、その後、自分がこの件で、ぶれることは全くありませんでした。必ずそういう病院が立ち上がるに違いないし、絶対に造ってみせると思っていました。県の医療局にも度々通い、高田病院は入院機能のある仮設の病院にしてくれないとだめだと訴え続けました」

 陸前高田市役所には、被災していない地区で仮設病院が建設できる広さの土地を探してもらうよう交渉し、7月には、コミュニティーセンターとは別の場所にプレハブの仮設外来棟がオープンした。

 診療の本格再開直後から、車を流されるなど足がなくて通院できない高齢被災者のために、「自宅を病室に」を合言葉に、訪問診療を始めた。寝たきりの母親と妻を自宅で介護していた70代の男性が、訪問診療に来た石木さんに「仮設病棟ができたら、入院させるから。それまで頑張って」と励まされたというエピソードが残っている。

 震災の被害を受けながら、自宅で老々介護を続け、疲れ切っていた高齢者。その人たちとの約束を守りたいと、県や周囲の病院関係者と話し合いを重ね、10月の県議会で、県知事が「高田病院は有床の仮設病院にします」と宣言した時は、スタッフで祝杯を挙げた。

 翌年2月、41床の仮設病棟が完成し、入院患者の受け入れが始まった。市役所でも多くの保健師が亡くなったため、全戸を訪問して住民の健康状態を調べる保健師活動に、高田病院の看護師も参加させた。病院に専用のリハビリ室を作り、震災前に思い描いていたリハビリの充実にも本格的に取り組み始めた。

 「震災が起きても、直前に発令された人事は生きていたから、リハビリのスタッフも5人は確保できていたのです。彼らは、入院病棟がない間は、仮設住宅に出向いて、運動不足になっているお年寄りの訪問リハビリをしっかりしてくれたし、引きこもりにならないように運動を指導する仕事もしてくれた。病院で仕事ができない期間も、住民の健康維持のためにかなり貢献してくれたのです」

 開業医と連携して、訪問診療を充実させるホットツバキシステムも、病棟の完成数か月後には患者登録が始まった。

 震災前に開設を考えていた認知症外来も、間もなくスタートした。避難所にいた住民が仮設住宅に移り、仮設での生活が長くなってきたころから、石木さんは、認知症患者がじわじわと増えてきているのを感じていた。

 「もちろん加齢に伴う自然な機能低下もあるのですが、被災に伴う精神的なストレスがきっかけになっていると思える患者さんも中にはいるのです。連れ合いも含めて、今まで一緒に住んでいた人が亡くなったり、老後の面倒をみてもらうつもりだった娘が亡くなったりした場合はかなり厳しいですよ。別の子どもにみてもらおうとしても、そりが合わなくて落ち込んでしまう。ほかにも、例えば趣味の踊りや歌のサークルに入っていたお年寄りが、慕っていたお師匠さんが亡くなってしまって、やる気をなくしてしまうことがありました。ほかのサークルを勧めても、そのお師匠さんでなければだめなのですね。かけがえのない存在を失ったショックは、それまで認知症になるのをかろうじて押しとどめていた大きな支えを、ぼろっとはいでしまったのです」

 さらに、生活環境の大きな変化も、認知症の増加に影響している印象を受けるという。

 「大家族で暮らしていた高齢者は、大人数で住める仮設住宅がないので、若い人と別々に住むことになってしまった。すると、高齢者だけではなかなか動けないから、引きこもりがちになる。また、高齢になると、新しいことをなかなか覚えられないので、トイレや電気のスイッチの場所が変わったとか、扉が引き戸に変わったことなどで戸惑っていると、家族に怒られてしまいます。特に水洗トイレの流し方が覚えられなかったりして、そのままにしておくと『ばあちゃん、汚ねえ』とか言われる。新しいことを覚えなくてはならないストレスに、周りに非難されるストレスが重なり、そのうち『帰る』というようになる。『どこに帰るの?』と聞くと、昔うちがあったところに行って、『ほら、ないでしょう?流されたのよ』と突きつけられ、絶望的な気持ちになって仮設に戻る。そういうことが重なることで、認知機能が悪化しやすいという状況が被災地にはあるのだと思います」

 診療が再開してからしばらくは、患者の医療情報がないことにも苦労した。津波でカルテがすべて流され、患者は予想以上に、自分の飲んでいた薬も病気の経過も覚えていない。医師らは、問診に時間をかけて、患者の医療情報の掘り起こしを行った。


 診療の立て直しの合間、石木さんは、病院で亡くなった全ての患者やスタッフの家族の訪問もした。

 「父は詳しく語らないのですが、ご家族の中には父の責任を厳しく問う人もいたそうです。なぜ助けられなかったのかと。院長としてできたことがあったのではないかと。そういうことも父は一人で受け止めて回っていました」と娘の医師、愛子さんは振り返る。

 診療が大幅に縮小したため、当初看護師の半数は、大船渡病院に一時的に配属されていた。「自分は高田病院に戻れるのか」。不安を抱えるスタッフに、「いつか必ず戻ってもらうから」と、声をかけて安心させるのも院長である石木さんの役目だった

 高田病院のスタッフは、米崎コミュニティーセンターから近くの住田病院2階に住む場所を移し、そこで6月いっぱいまで共同生活を営んでいたが、7月には、仮設住宅に移動。石木さんも、愛子さんと一緒に西和野の仮設住宅に入った。病院スタッフと共同生活を送った時は、食事もベテラン主婦のスタッフが作ってくれたりしていたが、仮設での生活が始まると、石木さんは家事も始めるようになった。愛子さんはこう語る。

 「それまでは母がすべて家事を引き受けていましたから、忙しい仕事の合間に家事を覚えるのは、きっと大変だったと思います。夜ご飯は私が作りましたが、朝は父が用意しました。食べるのも飲むのも好きな人ですから、料理の本を見ながら、みそ汁を作ったり、おからを煮たりしていましたね」

 昼ご飯は弁当の宅配サービスが間もなく始まったが、弁当も自分で作るようになった。

 「外食する場所もないし、配達の弁当を頼んだら揚げ物が多くて胃もたれしてしまって、弁当を自分で作るようになりました。大学の頃は自炊をしたこともないわけではないですが、医者になってから料理はしたことがないですから、最初は大変でしたよ。今では慣れて、毎日自分で作っています」

 食卓には、妻のたつ子さんの遺影を置き、夕飯の時は、石木さん、愛子さん、たつ子さん、3人分のおちょこを用意して、一緒に晩酌した。自分の分をすっかり干した後、最後に、「じゃあ、お母さんの分ももらうかな」と、石木さんがたつ子さんの分も飲み干して笑うのが日課になった。酔うと、石木さんはたつ子さんとの出会いの秘話や新婚の頃の思い出話を楽しそうに娘に語ることもあった。2人でたつ子さんのことを思い出し、時には笑いながら語り合うのは、大事な時間だった。

 入院病棟ができると、多くの患者が高齢者であるため、 看取みと りも数多く行うようになった。肺炎や食欲の衰えで、亡くなることが続くと、看取りの経験が少ない愛子さんは落ち込み、石木さんに「私、死に神になったみたいだ」と漏らすようになった。

 「年齢のせいだから仕方ないと片づけられていましたが、知識や経験がもっとあれば、助けることができる人もいるかもしれないと悩みました。地域での介護サービスも不足していて、お嫁さんが自分の生活を犠牲にして介護に専念し、亡くなると生きがいをなくして、今度はそのお嫁さんの体調が悪くなる。日本の高齢化の課題が凝縮されたような土地で2年間働いて、地域力、介護力の弱さが、お年寄りの健康悪化につながっていると感じ、もっと勉強したいと思いました」

 愛子さんは、東北大で加齢医学を学びたいと石木さんに告げ、3年目にこの土地を去ることになった。石木さんは一人、陸前高田に残って診療を続けた。

 被災前も高齢化率34.5%(2010年)と全国に先駆けて高齢化の進む陸前高田市だったが、震災で、若い世代が仕事のある都市に移住することもあり、少子高齢化の課題はより深刻になった。石木さんは市内の医療、介護、福祉施設に声をかけて、互いの連携を強める「陸前高田市の在宅医療を支える会―チームけせんの和」を設立し、会長に就任。地域の住民に病気予防に関心を持ってもらうよう、「チームけせんの和」のメンバーが俳優となって、病気の予防策を演劇で伝える「劇団ばばば☆」も設立した。町の高齢者を招待した初演は、「減塩」の大切さを訴える舞台で、石木さんも医師役の「俳優」として熱演した。

 「ばばばっていうのは、テレビドラマの『あまちゃん』のじぇじぇじぇと一緒で、この地方で、びっくりしたという意味の方言なんです。減塩だけでなく、転倒予防やお口の健康など演目も増えていて、とても好評なんですよ」

 次の院長が決まり、2014年3月、岩手県の医療職を退職した時、石木さんは、一人で仮設住宅に残って仕事を続けることを心配する子どもたちに問われた。

 「これからどうするの?」

 「チームけせんの和」も作ったばかり。雪の季節は、山奥の地域は医療や介護サービスが届かない。高齢化率が35%に迫る陸前高田市で、これから医療や介護の連携をどうしていくのか、介護予防の運動をどう広げていくのか、課題は山積していた。盛岡市に自宅はあり、老健施設の所長などの誘いもあり、心は揺れた。迷った末、陸前高田市に残ることを決めた。

 「どこに行ってもやりがいは見つかるの。全国で少子高齢化の課題を抱えているところなんてどこでもあるのだから、自分のやってきたことを生かせる場所はどこにでもある。でも、ここで被災したというのが大きいのだろうね。自分も被災者の一人だし、妻を亡くしているし、ここでは知った人がやたらと多い。町を歩いているとあいさつされるのは普通だし、運転していても車の窓越しにあいさつされる。そんな人たちが困っている話を聞くと、立ち去りがたい気持ちになる。根付いたというのは何だけど、高田の人たちが安心して暮らせるようにしたいっていう思いは震災後にますます強くなりましたね」

 (続く)

  1. 2016/03/23(水) 05:58:08|
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