Doctor G 3 のメディカル・ポプリ

地域医療とプライマリケア、総合診療などに関係したネット上のニュースを記録。医学教育、研修、卒後キャリア、一般診療の話題、政策、そしてたまたまG3が関心を持ったものまで。ときどき海外のニュースも。

3月20日 3.11震災関連 

http://www.sankei.com/photo/daily/news/160320/dly1603200022-n1.html
被災地の仮設診療所が閉所 4年8カ月の活動に幕
2016.3.20 産経ニュース

 東日本大震災の津波で医療機関が被災した岩手県陸前高田市で、医療不足を補おうと県医師会が4年8カ月運営してきたプレハブ仮設の高田診療所が20日、閉所した。再開した医療機関との競合を避けることなどが理由だが、身近な診療所を惜しむ声も聞かれた。
 この日も患者100人が受診。診察終了後には閉所式が開かれ、県医師会の石川育成会長が「医師らが団結し、今後の災害対応の手本になる活動ができた」と振り返った。戸羽太市長は「みんなの心のよりどころで、私も受診して助かった。市民を代表してお礼を言いたい」と感謝した。
陸前高田市は市内に11あった医療機関のうち、県立病院を含む10カ所が被災。深刻な医療不足を補おうと、2011年8月に県医師会が中心となり、市立第一中学の校庭でプレハブ仮設の診療所を始めた。内科や小児科、心療内科など10科を開設。土日を中心にのべ3千人の医師が交代で診察し、受診した患者数は2万8千人に上った。



http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=131231
編集長インタビュー
石木幹人さん(1)妻と病院、津波で流され それでも誓った「命を守る」

2016年3月7日 読売新聞

 東日本大震災から5年が経たった。かけがえのない人を亡くし、自宅や職場が流されて生活が一変した被災地で、どれだけたくさんの人が悲しみを胸にこれまで生きてきたのだろう。あの日、自身が院長を務めていた岩手県立高田病院が津波にのみ込まれ、妻を失いながらも、地域の医療を守るため診療を続けてきた医師、石木幹人さん(68)。退職後の今も、自宅のある盛岡市には帰らずに仮設住宅に残り、地域医療の復興に挑み続ける。少子高齢化の急速な進行、地域コミュニティーの崩壊――。日本の未来を先取りしていると言われる被災地で奮闘してきた5年間と、これからの地域医療についてお話を伺った。

◆◆◆
 インタビューは、震災後4か月で高台に設立された仮設の高田病院で行った。白衣の下は若々しいジーパン姿だ。

 「診察の時はいつもこれ。被災した年の正月に、うちのやつと約束したの。体重が70キロになったらジーパンを買うよって。結局、見せられなかったけどね」

 「うちのやつ」とは震災で亡くした妻たつ子さん(当時57歳)のことだ。かつて80キロ以上あったという体重は、被災後の奔走で自然に落ち、約束のジーパンを買った。今では、トレードマークのように毎日はいて、市内のあちこちを歩き回る。

 陸前高田市は、今年1月時点の高齢化率が36.2%と全国平均(26.0%)をはるかに上回る。高台造成に時間がかかっているため、高田病院の本格再建は来年度に予定されている。石木さんは今も、仮設病院から西へ約3キロ離れた西和野の仮設住宅で暮らし、2014年の退職後も仮設病院で週2回の認知症外来を持つ。週1回は市の「地域包括コーディネーター」として、市民の相談業務や健康関連の講演などを行っている。

 「地元の人と話していると離れがたい思いになるし、やっぱり、やり残したことがあるという思いがあるからでねえかな。医療と介護の連携も、今、自分が手を引いてしまったら、このまま崩壊してしまうと思うし、冬になると雪で介護や医療の手が届かなくなる山間部をどうするかという問題も手つかずのまま。地域の高齢者を支える仕組みがしっかりできて、先が見えるまではいないといけないんでねえかと思ってね」

◆◆◆
 あの日、入院病棟のある4階で患者の回診をしていた時、これまで経験したことのないような大きな揺れに襲われた。身動きさえできないほどだ。揺れが収まってから、1階に降りて情報収集に当たったが、電話はすぐにつながらなくなり、職員も混乱状態で必要な情報は入ってこない。

 「こんな大きい地震なのだから津波は来るのだろうと思っても、情報がないから動けない。当時、有線放送で津波情報は流れていたらしくて、職員の中には聞いていた人もいるようなんですが、各部署でやることがいっぱいあり過ぎて、院長に情報が降りてこなかった。衛星電話もありましたが、使ったことがないから使おうという発想にもならない。その間にも面会に来ていた家族が『自宅に帰る』と言い張って、みんなで病院にとどまるように説得したりと、無為に時間を過ごしていました」

 やっと津波情報が入った時は、地震発生から30分以上経っていた。防災計画で想定していた最も高い津波は、病院の2階まで。訓練通り3階まで逃げた直後、窓の外に高田松原の松林を越えて、どす黒い津波が病院に押し寄せてくるのが見えた。

 「窓の外に津波を見てから2、3分だったと思います、高田病院がのみ込まれたのは。当時のことはもう記憶が薄れているのだけれども、私や職員は『屋上に逃げろ!』と叫びながら上がったらしいです。寝たきりの患者さんで救えなかった方もおり、最後まで1階で見回っていた事務局長も行方不明になりました」

 屋上から陸前高田の町を見ると、一面津波に覆われて、風景が一変していた。専業主婦をしていた妻のたつ子さんは、病院より少し山側の宿舎にいるはずだったが、そのあたりの家屋もことごとくなくなっていた。

 「うちのやつはボランティアもしていたし、友達も多かったから、出かけていてくれたら、宿舎から動いていてくれたら助かっているかもしれないという希望をその時は持っていました」と石木さんは言う。妻の生存を祈って、水浸しになった町をどんな思いで見渡したのか。後に、娘の愛子さん(31)には、「屋上から探しても、お母さんの気配がまったく感じられなかった」と振り返ったという。

 屋上に避難した約100人のうち、患者や体力のない人は風がよけられる囲いの中に入り、防寒具を着ていた人は自主的に外に出て、一晩を過ごした。翌朝、ヘリでまず患者を、次に一般住民を運んでもらい、最後に病院スタッフと共にヘリに乗りこんだ時には夕方になっていた。3月11日の高田病院の死者(震災関連死を含まず)は、患者12人、職員(非番も含む)6人に及んだ。

 「ヘリで避難して、空から何もかも流された陸前高田を見渡した時に、改めて、『医療は壊滅だ』と思いました。それと同時に、『でも高田病院のスタッフの大半は生き残った。自分たちで医療再建をしなければならない』という思いが、すごく強くわき上がりました。感傷に浸っている暇はなかったですよね」

 高田病院のスタッフは全員、ヘリで市内の公民館「米崎コミュニティーセンター」に運ばれた。到着したとたん、うわさを聞いて集まった患者の診療が始まった。妻のことが心配だったが、日頃から夫婦で「何か災害があったら、市立第一中学校(一中)で落ち合おう」と約束していた。翌日、各避難所の様子を見回りに行った時に、一中にも足を伸ばすと、近所に住んでいた人にばったりと出会った。「先生の奥さん、直前は自宅にいたよ」と、その人は告げた。

 「それを聞いた瞬間、『ああ、もうだめだな』とあきらめました。もう絶対に無理なんだなと」

 その足でまたコミュニティーセンターに帰り、詰めかけていた患者の診療を始めた。

 医学生時代に結婚した妻は、家事や育児を一手に引き受け、石木さんが勉強や仕事に集中できるように支えてくれた。医師不足の高田病院に赴任し、医師を確保するために各地の大学病院を走り回った時は、50代になっても当直日数が多くて疲れ切っている石木さんの代わりに、長時間の運転をこなしてくれた。医療や社会問題にも関心が高い読書家で、「これを読むといいわよ」と勧めてくれて、診療の幅が広がった。自分の人生になくてはならない相棒だった。

 (今日の夜は大変だな。一人になったら泣いてしまうんでねえかな)

 一瞬、不安がよぎったが、患者の前に座ると、医師としての責任感が感情に溺れそうな心を押しとどめた。そこに突然、現れたのが、盛岡にいるはずの三男だった。周囲に止められたそうだが、「とにかく両親の無事を確かめたい」と緊急車両に紛れて車で陸前高田に入り、数時間、あちこちを歩き回って、父の元にたどり着いたのだ。

 「『先生、息子さん来たよ』って声をかけられたんだけど、診察中だったので『ちょっと待ってろ』って言ったみたい。『あの時、冷たかったなあ、お父さんは』って後で言われました。夜、みんなで雑魚寝しているところに2人で並んで寝て、『お母さんはどうも自宅にいたみたいだから、まず無理だ』と伝えたんですよね。でも、息子が来てくれたおかげで、心が乱れずにすんだな。その夜もちゃんと眠れたし。翌日には盛岡で研修医をしていた娘が来てくれて、初期に家族に支えられたというのは、すごくあったね」

 当時、盛岡市の岩手県立中央病院で初期研修中だった長女の愛子さん(現・東北大学加齢医学研究所老年医学分野所属)は、13日の昼頃、高田病院で研修中で、ヘリでいったん盛岡に運ばれた同期の研修医から、石木さんに託されたというメモを受け取った。そこには患者と職員の被災状況、当面必要な衣服や薬などが書かれ、「お母さんは絶望的です」とも書かれていた。愛子さんは翌日、職場の上司らと6人で支援物資を持って陸前高田に向かった。

 高田病院のスタッフの避難場所となった米崎コミュニティーセンターには、高血圧や糖尿病など持病の薬が津波に流されたという患者、風邪をひいたという患者が続々と来て、スタッフ自身も被災者なのにフル回転で診療をした。院長の石木さんは、地域医療に責任を持つ立場として、14日朝からは主な避難所を回り、被災者の健康状態を探った。

 「避難所に行くと、『ああ! 院長だ』と途方にくれた人たちが集まってくるじゃない。『何とかするから心配しないで』と声をかけると、ほっとした様子でした。一番大きい気仙町の避難所は橋が流されて、ぐるっと遠回りしないと入れなかったんだけど、『明日必ず医者を出すから、安心して』と伝えて、次の日は医者2人と看護師何人かに行ってもらった。そういう場所が何か所もあって、そこも何とかすると約束して回りました」

 院長に赴任して7年。高齢化が全国に先駆けて進んでいたこの地で、「高齢者に一番優しい病院」を掲げ、高齢者が退院後に自宅でスムーズに生活できるような医療体制を準備してきた。すべて流され、地域医療が壊滅的な被害を受けた時、改めて地域における医師の役割を思い知った。

 「ここで高田病院がこけたら、地域の人の命が守れなくなると思いました。震災翌日には日本赤十字の医療支援チームが入って広範囲に活動してくれていたのですが、だからといって、僕らが日赤に全部任せて休んでいるわけにはいかない。ヘリの上から何もかも流された高田のまちを見た時、高田病院が何とかして医療を復活させないと、この地域の未来はないとまで思っていたんです。市には救護所を設置する場所を探してもらい、そこに医者を張りつけていくという作業を繰り返しました」

 14日の夕方に駆けつけた愛子さんは、避難所回りを終えてコミュニティーセンターに帰ってきた父の姿を見ると、思わず駆け寄って抱き合った。「生きてて良かった」と父に告げた。後日、石木さんは「その言葉を聞いて、俺、生きているんだと、初めて気付いた」と語ったという。

 「父は、地震の発生からずっと気が張りつめたまま懸命に働いていた。自分の命のことを考える余裕がなかったのだと思います」と愛子さんは話す。

 すぐに医療チームに加わった愛子さんは、翌日、指揮を執る父から、「愛子先生は各避難所の医療ニーズを調べてきてください」と役割を振られた。避難所には寝たきりの人、人工透析が必要な人、高血圧や糖尿病で薬がない人、精神疾患を抱えた人ら、医療が必要な人でひしめいていた。しかし、薬も医療者も医療用具もない。その年の4月から、県立中央病院で後期研修を受ける予定だったが、現場を見て、残ることを決めた。

 「後期研修なんていつでもできる。こんなにすごいごたごたが復興していく過程には一生に1度かかわれるかどうかなんだから、経験しておいた方がいいよと話したら、娘も納得してね」と石木さんは当時を振り返るが、愛子さんは父に言われるまでもなく、自分自身で気持ちを固めていた。

 「まず、医師として目の前にやるべきことがたくさんあったし、やるべきだろうとしか思えませんでした。もう一つ、娘として父を一人で陸前高田に残していくという選択肢はなかった。母もいないし、着の身着のままで被災して何も残っていない。生活のサポートや精神的な支えがないまま、この大変な業務量を父にさせるということは、家族としてどうしてもできなかった」と愛子さんは言う。

 いったん盛岡に戻って、指導医の許可を得た上で、長期出向の形を取り、愛子さんは高田病院で働くことになった。

 夜は職員全員が雑魚寝をしている部屋で並んで眠った。震災後、石木さんは一人で眠ることはほとんどなかった。

 「互いに泣いた顔を見せたことはないと思うよ」と石木さんは振り返る。しかし、愛子さんは違う記憶を持っている。

 「夜、時折、父が泣いているのに気付くことがありました。黙ってそばにいましたが、それは娘ですから気がつきますよね……」

 高田病院の診療機能が停止したため、隣の県立大船渡病院に患者は殺到していた。高田病院を早く診療再開させるため、救護所運営は別の医師に任せ、石木さんは検査体制と調剤薬局の整備に奔走した。

 その傍ら、盛岡に行く用事がある時は、娘と共に遺体安置所に寄って、妻を捜した。見つかってほしいという気持ちと、見つかってほしくないという気持ちとが交錯する中、震災から3週間後の31日午後、妻が見つかった。色や形が特徴的な靴が決め手だった。ほぼ間違いないとわかった時は、2人で放心状態だった。

 「ようやく見つかったと、ほっとした思いはあったね。もう安置所に捜しに行かなくていいんだという思いも正直あった」。3週間ぶりの再会。しかし、33年連れ添った妻との別れを、ゆっくりと悼む時間はなかった。

 検査や薬局の体制のめどがつき、4月4日には高田病院が一般診療を本格的に再開することが決まっていた。これからの再建について、職員全員で話し合ったその日の夜が通夜で、その後数日で葬儀などすべての儀式を終えた翌日には、すぐに仕事に戻った。

復興への長い道のりが始まった。

 (続く)

【略歴】石木幹人(いしき・みきひと)
 岩手県立高田病院前院長、県医療局名誉院長、陸前高田市の在宅療養を支える会チームけせんの和会長、陸前高田市地域包括ケアコーディネーター
 1947年、青森市生まれ。71年、早稲田大学理工学部卒。79年、東北大学医学部卒。岩手県立中央病院呼吸器外科長兼臨床研修科長を経て、2004年、岩手県立高田病院院長。11年3月、東日本大震災で同院が全診療機能を失い、妻を津波で亡くしながら、診療を続ける。14年3月に岩手県医療局を退職後も陸前高田市に残り、地域医療の復興に携わっている。



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編集長インタビュー
石木幹人さん(2)「日本一高齢者に優しい病院を」 築きかけていた地域医療の未来

2016年3月14日 読売新聞

 医師としての使命感に駆り立てられ、被災地の医療復興のために力を尽くす石木幹人さん(68)だが、実は、最初から医師を志していたわけではない。青森で開業医をしていた父の生き方に若い頃は抵抗を感じていたこともあり、最初に入学したのは早稲田大学理工学部。医療関連の電子工学研究室に所属していた。

 「父親を見ていると、仕事ではほぼ100%患者のために動いていて、最先端の情報を勉強しているようには見えなかった。時折、自宅で開いていた開業医仲間の懇親会を見ていても、語る内容は遊びや趣味の話ばかりで、学生の自分にとっては先が見えてしまう感じがしたんです」

 しかし、後を継ぐことを期待される開業医の長男として、「医者にならなくていいのか?」と自問自答する思いは常に胸の中にあった。大学の時の研究テーマは、心電図の自動解析。その後の修士課程では、腸管の音から腸閉塞の部位を診断する機械が作れないかと計画している医師の研究者の協力依頼が研究室にあり、医師と濃密にやり取りをする機会があった。

 「こういう世界があるのだなと気付いたら、急に、医師に関心が湧いてきたのです。人間や患者の生活を診るというよりは、病気や体の部位を最先端の科学技術で診るという、今とは真逆の医師像に最初は憧れたのですね」

 修士課程を中退し、24歳で東北大学医学部に入り直した。内科か外科かどちらかに進もうと決め、同じ年に入学した弟が先に「内科」と決めたのを聞いて、「じゃあ俺は外科にするか」と、深く考えずに専門を決めた。呼吸器外科の医局に入り、肺がんの手術を数多く執刀した。当時は大半の患者は治すことができず、手術した病院で看取みとる時代だった。

 「モルヒネも大量には使えず、緩和医療という発想もほとんどない時代で、患者にがんの告知することも珍しかった。苦痛を取れずに、患者をだましながら看取り、こんな医療はおかしいという疑問が常に心の中にありました」

 その頃、世界保健機関(WHO)のがん疼痛とうつう緩和指針の日本語訳が出て、これは使えそうだと飛びついたが、使いこなせるまでには時間がかかった。それと前後して、終末期ケアを訴える精神科医E・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間 死とその過程について』(単行本は読売新聞社、現在は中公文庫)が日本でも出版され、ホスピスを紹介する様々な書籍も出始めた。

 死にゆく患者にどういう医療を提供すればいいのか悩んでいた石木さん。終末期ケアの書籍を読みあさり、特に衝撃を受けたのは、終末期を迎えた患者に「どのように過ごしたいですか?」と医師が尋ね、仕事ができるオフィスが欲しいという希望を元に、病室にすぐに電話やデスクがそろえられたというエピソードだった。

 「日本の医療は、医療サイドの都合や利便性が追求されていましたが、受ける側の利便性はほとんど考えられていませんでした。ところが終末期ケアの現場から語られていたのは、患者の人生に沿った医療サービスです。これは今までの医療と全く発想が違うと驚きました。その頃から、外科の医者であっても、患者さんの生活や家族背景がわからないと良い診療なんてできないと考えるようになり、入院してくると、とにかく患者や家族の話を聞いて、看護師よりも家族関係について詳しい医者になっていましたね」

 730床を有する県内のセンター病院、岩手県立中央病院の呼吸器外科長を経て、2004年4月に、地域密着型の地域総合病院「岩手県立高田病院」(当時の稼働病床数70床)の院長を任命された。岩手県は、全国で北海道に次いで面積が広大な土地に、県民が分散して住む環境で、慢性的な医師不足と医療提供体制の維持に悩まされてきた県でもある。

 公立病院が農山村や沿岸の過疎地域の医療で果たす比重が高く、どこも赤字続きの収支にあえいでいた。石木さんが院長に就任する直前、高田病院は毎年数億円の赤字を計上し、県が進める県立病院の改革プランでは、病棟の大幅削減など規模縮小の対象施設の一つとなっていた。

 だが、岐路に立った同院の再建という大きな課題を抱えながらも、「患者の生活を考えて医療サービスを提供する」という石木さんの考えはぶれなかった。「日本一高齢者に優しい病院」を掲げ、病院改革に取り組み始めた。

 高田病院の近くには、479床を持つ広域基幹病院である県立大船渡病院が控えており、交通手段や体力のある人たちは最初からそちらに通っていた。高田病院に通う患者の多くは、70~80歳の高齢者。入院後に、足腰が弱って寝たきりになるという事態も頻繁に起きていた。

 「例えば、おばあさんが一人暮らしで、足や腰を痛めて歩くのが大変なまま自宅に帰したとしたら、自分でご飯を作れないのだから、ご飯が食べられなくなる。家族背景や家庭環境が考慮されていない医療が行われていたのです。肺炎で入院して、治して、退院してもいいよとこちらが言っても、家族が困るわけです。入院するまでは歩けていたのに、退院する時は一人で歩けなくなるからです。だからまず、入院する前の状態で帰すことを目指して、リハビリを充実させることから手を打ち始めました」

 リハビリ担当は、もともと理学療法士が1人いたのを2人にした。言葉の障害や食べる機能の障害を訓練して改善する言語聴覚士も一人増やして3人体制になったところで、震災が起きた。2011年4月からは、作業療法士と理学療法士をもう1人増やし、5人体制に強化する矢先だった。

 訪問診療も、石木さんが赴任してから強化した医療の一つだ。

 「大船渡病院に脳卒中で入院して、介護が必要な状態で高田病院に転院してくる時に、『在宅で診るのは無理だから、施設を探して下さい』と指示されてくる例がとても多かったのです。しかし、家族の話をよくよく聞くと、できるならば家で看たいという人が多かった。それには訪問診療を充実させることが大前提となります。医師の数も限界があるし、高田病院だけでは訪問医療は回せないとなった時に、地域の開業医の先生にも受け持ってもらうことが必要だったのです」

 その実現のために必要だったのは、患者が自宅で急変した時にいつでも入院を受け入れる病院のバックアップ体制だった。石木さんは地域の開業医と会議を重ね、在宅の患者の診療情報を病院と共有する「ホットツバキシステム」を構築。ホットは「温かい心」を指し、ツバキは陸前高田市の市花だ。夜間や土日に急に体調を崩した時は、事前登録して患者情報のある高田病院に連れてくれば、即入院させるという体制を作り、地域全体で訪問診療を手厚くする登録システムを2011年4月から稼働させるばかりとなっていた。

 高田病院に赴任するまで、呼吸器外科の専門医として活躍していた石木さんが、認知症の患者を診るようになったのも、目の前に認知症で困っている患者や家族が続々現れたからだ。もともと2人しかいなかった内科医の1人が赴任直後に辞めることになり、内科の外来も受け持つようになった。すると赴任して半年ぐらいの間にも、どんどん症状が進んでいく認知症患者を何人も診ることになった。患者の付き添いで来ていた家族も、患者を看取った後に認知症になるということを何人も経験した。

 「患者が亡くなった後に、付き添っていた家族も私の顔がわからなくなってしまう。俺は外科だから認知症なんてわからない、と言っている場合ではないと危機感を持つようになりました。そのうち、院長として、地域で市民向けに認知症をテーマに講演してくれと頼まれるようになり、勉強して病態もわかるようになると、これはほっとけないなという思いを抱いたのです。赴任翌年、地域の認知症治療体制の中核的な役割を担う認知症サポート医の講習会があると聞いて、誰も手を挙げなかったので、外科の私が行かせてもらいました」

 その後も認知症の専門医の講演会などにまめに足を運び、診療経験を積むうちに、認知症の患者に対して自信を持って接することができるようになった。外来患者の中でも、じわじわ認知症患者の割合が増えていると感じ、認知症に特化した外来を開くことを決めた。この専門外来も、2011年4月に開設するはずだった。

 こうして、リハビリの充実、訪問医療の地域体制、認知症専門外来の開設と、04年の赴任以来、こつこつと準備を積み重ねてきた計画が、いよいよ始動しようとしていた時、東日本大震災が起きた。収支も黒字転換し、稼働病床数も増やそうという話さえ出て、明るい希望が見えていた時だった。

 「種をまいて、水をあげて手入れして、全部これから花が開きそうとなっていた時に、全部津波で流されたの。あと一歩という時にね」

 震災で妻も、病院も、家財道具一式も流された。もう一つ流されたのは、理想に向けて築きかけていた地域医療の未来だった。

 (続く)



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編集長インタビュー
石木幹人さん(3)地域医療の再建 震災影響で認知症も増え

2016年3月21日 読売新聞

 震災の翌月、岩手県立高田病院は、スタッフの避難所兼救護所としていた米崎コミュニティーセンターで、本格的に一般診療を再開した。3月下旬には、震災直後から自身も被災者なのに休みなしで働いていたスタッフに休暇を取らせ、4月4日に改めて全員集合した。震災前に行っていた一般検査はほぼすべてできるようになり、調剤薬局も備えた再出発だった。その頃には、地元の開業医や外からの応援医療者により、市内7か所で八つの救護所が運営されていたが、その中心となる高田病院の本格再開だった。

 「同じ医療圏の中で、高田病院で受け入れられない患者が殺到して疲弊している基幹病院、大船渡病院の負荷をどうにかしなくちゃいけないというのが、自分の中ではかなり大きな課題でした。高田病院で一般診療を再開するには、検査と薬局が欠かせない。だから検査科と薬剤科のスタッフの尻をたたいて、鬼のような院長だったと思います」

 陸前高田と盛岡を何度も往復しては、行政と事務手続きを急ピッチで進め、検査科のスタッフと検査機器を集めるのに奔走した。調剤薬局を作るために、薬剤科のスタッフや薬剤師会と話し合いを繰り返した。

 「当時は、『なんでこんなに時間がかかるんだ!』と腹を立てていたけれど、今振り返れば、あの震災から1か月足らずで一般診療を再開するなんてすごいことだった。大船渡病院の外来数も、4月には震災前とほとんど同じぐらいに落ち着いたのです。地域医療は、一つの病院のことだけを考えたらいいわけじゃない。地域全体のそれぞれの病院の役割や負担のバランスも考えなくちゃいけない。だから、みんなでよく頑張ったなと今は思いますね」

 再集結の日に、病院のスタッフ全員で、これからどういう診療を目指していくのか、グループに分かれて話し合いをした。当面の活動方針として、〈1〉入院機能を持つ仮設病院の早期再建〈2〉訪問診療の充実〈3〉住民の健康管理(保健師活動)への参加〈4〉心のケアの充実――の四つを大きな柱と決めた。どのグループも共通して掲げた目標は、「入院機能を持った仮設の病院」だった。

 「みんなが入院機能を必要だと思っていることを最初に確認したから、その後、自分がこの件で、ぶれることは全くありませんでした。必ずそういう病院が立ち上がるに違いないし、絶対に造ってみせると思っていました。県の医療局にも度々通い、高田病院は入院機能のある仮設の病院にしてくれないとだめだと訴え続けました」

 陸前高田市役所には、被災していない地区で仮設病院が建設できる広さの土地を探してもらうよう交渉し、7月には、コミュニティーセンターとは別の場所にプレハブの仮設外来棟がオープンした。

 診療の本格再開直後から、車を流されるなど足がなくて通院できない高齢被災者のために、「自宅を病室に」を合言葉に、訪問診療を始めた。寝たきりの母親と妻を自宅で介護していた70代の男性が、訪問診療に来た石木さんに「仮設病棟ができたら、入院させるから。それまで頑張って」と励まされたというエピソードが残っている。

 震災の被害を受けながら、自宅で老々介護を続け、疲れ切っていた高齢者。その人たちとの約束を守りたいと、県や周囲の病院関係者と話し合いを重ね、10月の県議会で、県知事が「高田病院は有床の仮設病院にします」と宣言した時は、スタッフで祝杯を挙げた。

 翌年2月、41床の仮設病棟が完成し、入院患者の受け入れが始まった。市役所でも多くの保健師が亡くなったため、全戸を訪問して住民の健康状態を調べる保健師活動に、高田病院の看護師も参加させた。病院に専用のリハビリ室を作り、震災前に思い描いていたリハビリの充実にも本格的に取り組み始めた。

 「震災が起きても、直前に発令された人事は生きていたから、リハビリのスタッフも5人は確保できていたのです。彼らは、入院病棟がない間は、仮設住宅に出向いて、運動不足になっているお年寄りの訪問リハビリをしっかりしてくれたし、引きこもりにならないように運動を指導する仕事もしてくれた。病院で仕事ができない期間も、住民の健康維持のためにかなり貢献してくれたのです」

 開業医と連携して、訪問診療を充実させるホットツバキシステムも、病棟の完成数か月後には患者登録が始まった。

 震災前に開設を考えていた認知症外来も、間もなくスタートした。避難所にいた住民が仮設住宅に移り、仮設での生活が長くなってきたころから、石木さんは、認知症患者がじわじわと増えてきているのを感じていた。

 「もちろん加齢に伴う自然な機能低下もあるのですが、被災に伴う精神的なストレスがきっかけになっていると思える患者さんも中にはいるのです。連れ合いも含めて、今まで一緒に住んでいた人が亡くなったり、老後の面倒をみてもらうつもりだった娘が亡くなったりした場合はかなり厳しいですよ。別の子どもにみてもらおうとしても、そりが合わなくて落ち込んでしまう。ほかにも、例えば趣味の踊りや歌のサークルに入っていたお年寄りが、慕っていたお師匠さんが亡くなってしまって、やる気をなくしてしまうことがありました。ほかのサークルを勧めても、そのお師匠さんでなければだめなのですね。かけがえのない存在を失ったショックは、それまで認知症になるのをかろうじて押しとどめていた大きな支えを、ぼろっとはいでしまったのです」

 さらに、生活環境の大きな変化も、認知症の増加に影響している印象を受けるという。

 「大家族で暮らしていた高齢者は、大人数で住める仮設住宅がないので、若い人と別々に住むことになってしまった。すると、高齢者だけではなかなか動けないから、引きこもりがちになる。また、高齢になると、新しいことをなかなか覚えられないので、トイレや電気のスイッチの場所が変わったとか、扉が引き戸に変わったことなどで戸惑っていると、家族に怒られてしまいます。特に水洗トイレの流し方が覚えられなかったりして、そのままにしておくと『ばあちゃん、汚ねえ』とか言われる。新しいことを覚えなくてはならないストレスに、周りに非難されるストレスが重なり、そのうち『帰る』というようになる。『どこに帰るの?』と聞くと、昔うちがあったところに行って、『ほら、ないでしょう?流されたのよ』と突きつけられ、絶望的な気持ちになって仮設に戻る。そういうことが重なることで、認知機能が悪化しやすいという状況が被災地にはあるのだと思います」

 診療が再開してからしばらくは、患者の医療情報がないことにも苦労した。津波でカルテがすべて流され、患者は予想以上に、自分の飲んでいた薬も病気の経過も覚えていない。医師らは、問診に時間をかけて、患者の医療情報の掘り起こしを行った。


 診療の立て直しの合間、石木さんは、病院で亡くなった全ての患者やスタッフの家族の訪問もした。

 「父は詳しく語らないのですが、ご家族の中には父の責任を厳しく問う人もいたそうです。なぜ助けられなかったのかと。院長としてできたことがあったのではないかと。そういうことも父は一人で受け止めて回っていました」と娘の医師、愛子さんは振り返る。

 診療が大幅に縮小したため、当初看護師の半数は、大船渡病院に一時的に配属されていた。「自分は高田病院に戻れるのか」。不安を抱えるスタッフに、「いつか必ず戻ってもらうから」と、声をかけて安心させるのも院長である石木さんの役目だった

 高田病院のスタッフは、米崎コミュニティーセンターから近くの住田病院2階に住む場所を移し、そこで6月いっぱいまで共同生活を営んでいたが、7月には、仮設住宅に移動。石木さんも、愛子さんと一緒に西和野の仮設住宅に入った。病院スタッフと共同生活を送った時は、食事もベテラン主婦のスタッフが作ってくれたりしていたが、仮設での生活が始まると、石木さんは家事も始めるようになった。愛子さんはこう語る。

 「それまでは母がすべて家事を引き受けていましたから、忙しい仕事の合間に家事を覚えるのは、きっと大変だったと思います。夜ご飯は私が作りましたが、朝は父が用意しました。食べるのも飲むのも好きな人ですから、料理の本を見ながら、みそ汁を作ったり、おからを煮たりしていましたね」

 昼ご飯は弁当の宅配サービスが間もなく始まったが、弁当も自分で作るようになった。

 「外食する場所もないし、配達の弁当を頼んだら揚げ物が多くて胃もたれしてしまって、弁当を自分で作るようになりました。大学の頃は自炊をしたこともないわけではないですが、医者になってから料理はしたことがないですから、最初は大変でしたよ。今では慣れて、毎日自分で作っています」

 食卓には、妻のたつ子さんの遺影を置き、夕飯の時は、石木さん、愛子さん、たつ子さん、3人分のおちょこを用意して、一緒に晩酌した。自分の分をすっかり干した後、最後に、「じゃあ、お母さんの分ももらうかな」と、石木さんがたつ子さんの分も飲み干して笑うのが日課になった。酔うと、石木さんはたつ子さんとの出会いの秘話や新婚の頃の思い出話を楽しそうに娘に語ることもあった。2人でたつ子さんのことを思い出し、時には笑いながら語り合うのは、大事な時間だった。

 入院病棟ができると、多くの患者が高齢者であるため、看取みとりも数多く行うようになった。肺炎や食欲の衰えで、亡くなることが続くと、看取りの経験が少ない愛子さんは落ち込み、石木さんに「私、死に神になったみたいだ」と漏らすようになった。

 「年齢のせいだから仕方ないと片づけられていましたが、知識や経験がもっとあれば、助けることができる人もいるかもしれないと悩みました。地域での介護サービスも不足していて、お嫁さんが自分の生活を犠牲にして介護に専念し、亡くなると生きがいをなくして、今度はそのお嫁さんの体調が悪くなる。日本の高齢化の課題が凝縮されたような土地で2年間働いて、地域力、介護力の弱さが、お年寄りの健康悪化につながっていると感じ、もっと勉強したいと思いました」

 愛子さんは、東北大で加齢医学を学びたいと石木さんに告げ、3年目にこの土地を去ることになった。石木さんは一人、陸前高田に残って診療を続けた。

 被災前も高齢化率34.5%(2010年)と全国に先駆けて高齢化の進む陸前高田市だったが、震災で、若い世代が仕事のある都市に移住することもあり、少子高齢化の課題はより深刻になった。石木さんは市内の医療、介護、福祉施設に声をかけて、互いの連携を強める「陸前高田市の在宅医療を支える会―チームけせんの和」を設立し、会長に就任。地域の住民に病気予防に関心を持ってもらうよう、「チームけせんの和」のメンバーが俳優となって、病気の予防策を演劇で伝える「劇団ばばば☆」も設立した。町の高齢者を招待した初演は、「減塩」の大切さを訴える舞台で、石木さんも医師役の「俳優」として熱演した。

 「ばばばっていうのは、テレビドラマの『あまちゃん』のじぇじぇじぇと一緒で、この地方で、びっくりしたという意味の方言なんです。減塩だけでなく、転倒予防やお口の健康など演目も増えていて、とても好評なんですよ」

 次の院長が決まり、2014年3月、岩手県の医療職を退職した時、石木さんは、一人で仮設住宅に残って仕事を続けることを心配する子どもたちに問われた。

 「これからどうするの?」

 「チームけせんの和」も作ったばかり。雪の季節は、山奥の地域は医療や介護サービスが届かない。高齢化率が35%に迫る陸前高田市で、これから医療や介護の連携をどうしていくのか、介護予防の運動をどう広げていくのか、課題は山積していた。盛岡市に自宅はあり、老健施設の所長などの誘いもあり、心は揺れた。迷った末、陸前高田市に残ることを決めた。

 「どこに行ってもやりがいは見つかるの。全国で少子高齢化の課題を抱えているところなんてどこでもあるのだから、自分のやってきたことを生かせる場所はどこにでもある。でも、ここで被災したというのが大きいのだろうね。自分も被災者の一人だし、妻を亡くしているし、ここでは知った人がやたらと多い。町を歩いているとあいさつされるのは普通だし、運転していても車の窓越しにあいさつされる。そんな人たちが困っている話を聞くと、立ち去りがたい気持ちになる。根付いたというのは何だけど、高田の人たちが安心して暮らせるようにしたいっていう思いは震災後にますます強くなりましたね」

 (続く)


  1. 2016/03/21(月) 06:47:12|
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