Doctor G 3 のメディカル・ポプリ

地域医療とプライマリケア、総合診療などに関係したネット上のニュースを記録。医学教育、研修、卒後キャリア、一般診療の話題、政策、そしてたまたまG3が関心を持ったものまで。ときどき海外のニュースも。

3月11日 3.11震災関連

https://www.m3.com/news/iryoishin/406043?dcf_doctor=true&portalId=mailmag&mmp=MD160311&dcf_doctor=true&mc.l=147792561&eml=3f492a08f1681d66441569ec02c0b51e
シリーズ: 東日本大震災から5年
被災地、41%の医師が「震災後忙しくなった」◆Vol.8
「受診が遅れ、難治する人が増」「県民健康管理の仕事が上乗せ」

医師調査 2016年3月11日 (金)配信高橋直純(m3.com編集部)

Q 震災前と比べて、2016年時点のご自身の勤務状況に変化はありますか。
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 3県全体では、「忙しくなった」が41%、「忙しくなくなった」が11%だった。地域別にみると、宮城県で「忙しくなった」が46%で、岩手、福島両県より高い傾向にあった。

■忙しさについてのコメント
【岩手県】

・外来や入院に関しては震災直後から3年くらいは超忙しかったが、徐々に震災前のレベルに戻りつつある。当直業務や院内の仕事や雑用は増加の一途である。なにせ常勤医は5人から2人になったのだから 非常勤の医師が日曜日の日当直を定期的に行ってくれるので助かっている。

・被災後のストレスで精神的に余裕がない・・・。

・人が減った分、病院の仕事も減らした。

・医師不足が改善しないので、業務は増えている。

【宮城県】
・一人の医師がやる気を出さなくなり、私の仕事が倍増した。

・余裕ではなくヒマになりました。

・被災経験のある医師として、赤字幅が増えても国や自治体の援助が無くて、給料が半分に下がって<も、あるレベルまではこの地域を守っていきたいし、それが使命と思って働いています。

・患者数は増えているから忙しくなって当然かもしれません。

・受診が遅れ、難治する人が多くなる。

・震災以降、被災地住民への災害医療だけでなく、その後起こった各地の災害にも関わる仕事が増えた。

・震災後、診療終了時間を30分早めた。

・震災後3年間は、忙しくなり、現在では、戻っている。

【福島県】
・医師不足のため主任科長としての自分への負担が大きくなった

・診療所内は暇でも、訪問診療の独居老人が増えたため。

・パートの先生が増えたため、午後の外来や入院患者管理の負担が増えた。

・患者が減ったため、職員も減った。

・週80-100時間くらい働いています。密度はさらに濃くなっているように感じています。

・補充される人員があるが、若手が減り、全体としてDrの年齢は上がり、パフォーマンスは低下傾向。

・患者数に大きな変化はありませんが、被災者の患者さんの「書類書き」の業務が増えたため、時間的余裕は少なくなりました。

・60歳近いが、救急外来や救急当直も今までと変わりなく行わないと病院の当直が回らず、体力的に限界を感じている。

・自分がメンタル的に仕事を続けにくくなり、今はアルバイト生活をしている。自分の時間はあるが、給与は減った。

・休日出勤は当たり前、かといって、給料が高くなったわけでもない。こんな条件で「やりがい」だけで勤務するような奇特なDr.が本当にいるのか?その辺りをもっと考えないと被災地の医療は崩壊してしまいます。現在は、残った医師の自己犠牲でようやく成り立っているのが現状です。福島県の医療は、本当に崩壊寸前です。

・在宅訪問診療の希望者が増えている。医療もそうだが介護保険も加わり医師会としての活動が増えていて、会議や会合などにも時間を取られる。診療以外の事務的な仕事が増えている。

・通常の業務に加え、公的病院の支援、県民健康管理の仕事が上乗せされた。

・マンパワーが増えず、業務量はむしろ増えているため、自身の加齢分もあり負担感が増している。

・患者数の減少だけでなく、某医大の初期研修医の地域医療研修も受け入れていたが、こちらは震災後、希望者が激減したこともあり時間的な余裕だけは増えた。

・担当できる検査数が激減している(スタッフの勤務量からの制約)。

・勤務病院を変更した。燃え尽き症候群に罹患した。

・売り上げ金額のみで、医師を評価する機運が強くなっている。福島に留まり、医療を続けることへの評価は全く感じられない。



http://www.yomiuri.co.jp/local/mie/news/20160311-OYTNT50135.html?from=ycont_top_txt
震災5年 三重大卒の西さん、石巻で訪問診療
2016年03月12日 読売新聞 三重

 東日本大震災最大の被災地・宮城県石巻市で、三重大医学部卒の西俊祐さん(32)が奮闘している。西さんは市立病院開成仮診療所の研修医で、昨年4月、この街に移り住んだ。「何か被災者の役に立つことができないか」。そんな思いを胸に仮設住宅を回る日々が続く。(竹田章紘)

 「痛みはどうですか」。2月下旬、訪問診療先で関節リウマチなどを患う女性(80)に声をかけた。女性は起き上がるのもやっとの状態。西さんは「無理しなくていいからね」と語りかけ、女性が痛みを訴えた左腕を優しくさすり始めた。

 石巻市の死者・行方不明者は約4000人。診療所は、長野県の佐久総合病院で地域医療に取り組んできた医師・長純一さん(49)が市に掛け合い、被災者の健康を支える拠点として2012年5月に開設された。医師は所長の長さんら11人が在籍している。

 西さんは大阪市出身で、三重大在学中に1年休学。中国やインドなどアジアを放浪し、ネパールでは地域医療の普及に取り組む日本人医師と出会った。震災後は津駅前で募金活動をしたり支援物資を仕分けしたりするなどのボランティア活動に取り組んだ。

 卒業後は名古屋市内の病院で働いていたが、13年8月、長野県で開かれた医療セミナーで聞いた長さんの言葉が診療所に移るきっかけとなった。「医師は病気と向き合うだけでは駄目。住民同士で支え合う仕組み作りを呼びかけたり、病気にならないよう一人一人の日常生活を一緒に考えたりする必要がある」。その広い視点と医師の枠を超えた行動力に刺激を受けた。

 被災地が気になって翌14年、石巻市を訪れた。現地で働く医師からは「被災地をよくしたい」という強い思いを感じた。それは浪人時代、医師を目指す理由となった「本当に人に必要とされることをしたい」という気持ちと重なった。

 昨年4月、名古屋市から石巻市へ。週2日の外来診療を担うが、力を注いでいるのは訪問診療だ。患者だけではなく、「地域全体をみる医師」になりたいと週末には住民の集まりに積極的に参加し、高齢者たちと交流を図っている。

 被災者への遠慮もあり、震災当時の様子はあえて聞かないことにしているが、今では「津波にのまれ、車の窓を割って何とか助かった」などと患者から話してくれるようになった。地域に受け入れられたような気がしてうれしいと思う。

 震災から5年。西さんは11日も仮設住宅を回り、診療に追われた。医師としてはまだまだ力不足と感じるが、「ご縁があって移り住んだ石巻。しっかりと根付き、本当の意味で役に立つ医師になりたい」。決意を新たに、きょうも石巻を駆け回る。



http://www.yomiuri.co.jp/local/toyama/news/20160311-OYTNT50377.html
高岡の医師 陸前高田に…震災5年
2016年03月12日 読売新聞 富山

◆「被災地に寄り添いたい」

 「残りの医師人生をかけて被災地の人たちに寄り添いたい」――。そんな思いを抱いて、高岡整志会病院(高岡市)の中原慶亮けいりょう副院長(65)が4月、東日本大震災の津波で全壊し、仮設の建物で診療を続けている岩手県立高田病院(陸前高田市)に赴任する。住民の高齢化が進む被災地で、「整形外科医としてできることは多いはずだ」と決意を新たにしている。

 中原副院長は青森県十和田市出身。青森県内の病院などを経て、2003年4月から高岡整志会病院に勤務している。富山県内に5人しかいない手外科の専門医として診察や手術にあたっているほか、年2回は医師不足のミャンマーに赴き、子どもたちの治療もしている。

 年齢などから「集中力の維持など医者として力が注げるのもあと2、3年。残る時間で自分にできることはないか」と考えるようになり、自治体病院・診療所医師求人求職支援センターに整形外科医不足で困っている病院を尋ねたところ、高田病院を紹介された。陸前高田市では、津波で開業医が犠牲になってから整形外科医の不在が続いていると知り、赴任を決めた。

 昨年9月には現地の仮設病院に足を運び、待合室にあふれる高齢者の姿を目にした。街は、津波で浸水した地区をかさ上げする大規模造成工事中で、復興途上にあった。中原副院長は「リハビリテーションの認定医でもある自分なら、様々な側面から役立てるのではないか」と考えた。

 赴任後は隣の大船渡市にある県立大船渡病院などで手術を行う。高田病院は17年度中には新病院が完成する予定といい、中原副院長は「訪問による診察も含め、ゆっくりと患者さんの話を聞く機会が増えるだろう。非常勤の医師とは違い現地に住むので、信頼感も得られると思う。身構えず自然体で関わっていきたい」と話す。当面は、妻を高岡市に残して単身赴任になる。



http://news.livedoor.com/article/detail/11281016/
震災でなぜ自衛官はPTSDにならなかったのか 元自衛隊メンタル教官が解説
2016年3月11日 7時0分 dot.(ドット)

あまりにも大きなショックを受けると、同じ刺激でも、2倍、3倍の大きさに感じてしまうことも
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 あの震災から5年。当時、災害現場で救助に尽力したのが自衛官だった。救助活動後の自衛官のPTSD(心的外傷後ストレス障害)も心配されたが、実際、ほとんどその症状は見られなかったという。

 それはなぜなのか。元自衛隊のメンタル教官として、災害救助に携わった自衛官の心のケアを担当し、『自衛隊メンタル教官が教えてきた 自信がある人に変わるたった1つの方法』を著した、下園壮太氏に話を聞いた。

*  *  *
 震災では直接的な被災者だけでなく、多くの人が心に傷を受けました。救済活動に携わった自衛官もその仲間です。当時私は陸上自衛官のメンタルヘルス全般を考える立場にあり、現地に赴き被災者、隊員が直面する心理的な脅威も実感しました。精神科の医師たちとPTSDについて危惧したものです。

 ところが、震災後3年目のレビューで、実際には震災のショックによりPTSDになった自衛官はほとんどいないことが明らかになりました。

 さまざまなデータを総合して私たちがたどり着いたその要因は二つあります。

 一つは、震災当時に私たちメンタルヘルススタッフが強調していた「疲労管理」教育が功を奏したのではないかということです。

■ショックの後、疲労により傷つきやすさが残る

 人は通常大きなショックを受けると、傷つき疲れ果てます。しかし、しばらくするとそれを克服するものです。

 ところが、あまりにも大きいショックの場合、出来事対応や感情活動による疲労が非常に深くなり、いわゆる“うつ”状態に陥ることもあります。すると、同じ刺激でも、2倍、3倍の大きさに感じてしまいます。そのメカニズムは、『元自衛隊メンタル教官が教える 「折れてしまう」原因は、ストレスではなく◯◯だった』で紹介しました。

 日常の刺激が2倍のショックや疲労として作用するわけですから、日常の生活を続けていても(いるのに)、なかなか元の自分に戻れないのです。これを遅れて感じる疲労、「遅発疲労」と呼んでいます。

■自信の低下を予防する

 海外派遣された隊員の観察から遅発疲労のことを知っていた私たちは、隊員が災害派遣から帰って間もないうちに、遅発疲労について教育を行いました。もちろん個人でも疲労管理をしてもらうためですが、実はそれより重要な目的があったのです。それは「自信の低下」を予防することです。

 私は、自信を3つに分けています。まず、何らかの課題ができるようになる「“できる”という自信」、第1の自信と呼んでいます。これはわかりやすいですね。しかし、これ以外に人間の生きる力の根底を支える自信があと2つあるのです。

それは、「自分の体力や生き方に対する自信」である第2の自信と、「守ってくれる仲間がいる、愛されている、必要とされている自信」である第3の自信です。

 自衛隊員は、厳しい任務でも達成できる自信を持っています。そんな隊員が災害派遣を終えしばらくたったとき、突然気力が出なくなったり、体調不良に陥ったりした場合、どうなるでしょう。

「もう、終わったことなのに、自分だけあのことを引きずっている。自分は弱い人間だ、自衛官失格だ」と考え始めるのです。つまり、3つの自信の区分でいえば、第2の自信の低下です。

 第1の自信の低下は、何らかの成果や結果で比較的簡単に取り戻せる。しかし、第2、第3の自信が低下してしまうと、それを取り戻すには非常に多くの時間と努力が必要になります。

 だから私たちは、遅発疲労を紹介し、「それは普通のことだ。君がダメな自衛官だということではない、ただ、頑張って疲れが残っているということだ」ということをしっかり理解させたかったのです。

■自衛官の第3の自信を支えてくれたのは…

 そして、もう一つ、自衛官の第3の自信を支えてくれた大きな要因があります。

 それは、「国民からの感謝の言葉」です。国民に感謝されていると自衛官が認識できたことは、自衛官の第3の自信を非常に強く支えてくれました。

 ベトナム戦争では、参加した米軍の自殺やPTSDが非常に多く報告されています。命をかけて戦ったのに、国民の支持を得られなかったからです。

 あの震災で自衛官の活躍に救われた人も多いでしょう。しかし一方で、私たち自衛官も、国民のみなさんの感謝の気持ちに支えられていたのです。



http://www.asahi.com/articles/ASJ3B7K4RJ3BUBQU013.html
被災地で「健康守る」 千葉から福島・相馬市の内科医に
長谷川陽子
2016年3月11日07時00分 朝日新聞

 相馬中央病院(福島県相馬市)で働く内科医の森田知宏さん(28)は、震災をきっかけに医師として進むべき道が定まったと感じている。

 人の役に立つ仕事がしたくて、子どものころから医師を目指した。中高一貫の有名私立校から現役で東大に入ったが、どんな医師になりたいのか分からなかった。

 将来は内科で何かの専門医になろうか……。医学部の卒業まで1年となり、ぼんやり考えていた。そんなとき、震災と東京電力福島第一原発事故が起きた。

 その年の5月、福島県飯舘村で住人の健康診断を手伝った。村ごと避難するのを前に不安で医師と話し込む人もいた。「もう(村に)戻ってこられないんじゃないかという焦りが伝わってきて、これは大変だと思いました」

 国家試験の勉強の合間をぬって福島に通い、停電した病院でデータ入力などを担った。てんてこ舞いの医師の姿を見て、「この地域で働こう」と決めた。卒業後、千葉県内の病院で2年間の研修を終えて、相馬中央病院に赴任した。ほとんどの同級生は高度な専門医療を目指して後期研修に進んだが、早く被災地に行きたかった。

 8人いる常勤の医師では一番若く、勉強することは山のようにある。月に数回、家を流されたお年寄りが共同生活を送る長屋を訪ね、心配ごとがないか聞いて回る。お茶を飲みながら、世間話の相手にもなる。

 「このお薬、飲んでも大丈夫かね?」「漬物作ったから、持って帰ってよ」。お年寄りたちは森田さんがやってくるのを楽しみにしている。

 「最先端の医療で限られた人を救うことも素晴らしい。だけど僕は、できるだけたくさんの人の健康を守るような仕事を、この場所でやっていきたいと思っています」



http://www.yomiuri.co.jp/local/mie/news/20160311-OYTNT50143.html
災害時、心のケア支援
2016年03月12日 読売新聞 三重

 災害の被災地で心のケアなどの支援活動を行うため、県は11日、「災害派遣精神医療チーム(DPAT)」の派遣について県内の精神科病院と協定を締結した。

 DPATは各都道府県などで設置が進んでおり、三重県では精神科医や臨床心理士、看護師ら4~6人を1チームとして構成。避難所や仮設住宅での精神科医療を行うほか、被災者らの心のケアなどを担当する。

 県では発生から72時間以内に県立こころの医療センター(津市)で先遣隊を編成、派遣することにしている。現地では4週間の活動で拠点整備なども行い、その後のチームに引き継ぐ。県内では9病院15チームが既に編成されている。

 県庁で行われた締結式に出席した県精神科病院会の斎藤純一会長は「南海トラフ巨大地震の懸念もあるので、震災の反省も踏まえて官民で防災・減災対策に乗り出したい」、鈴木英敬知事も「折しも震災から5年のこの日に締結ができた。気を引き締めて態勢を整えていきたい」と話した。



http://www.huffingtonpost.jp/mio-takano/futaba_b_9434578.html
「そこに存在してはいけないとされた病院」福島県双葉郡広野町・高野病院奮戦記 第5回
高野己保  高野病院事務長
投稿日: 2016年03月11日 12時56分 JST ハフィントンポスト

前回は3月15日に広野町が、町の機能を移転したところまでのお話をさせていただきました。それ以降は町の山側に100人くらいの人が残っているという噂を聞きましたが、野良犬や野良牛に遭遇することはあっても、町中で人に会うことはありませんでした。

人のいなくなった町は、夜になると暗闇に包まれ、朝になっても生活のにおいや音がせず、生命の活動というものが全く感じられない、まるで時間がずっと止まったままの、まるで映画のセットの中にいるようでした。だれも立ち入ってこない、地球上でここには、患者さんと私達しかいない錯覚。それがいったいいつまで続くのかわからない状況の中で、「患者さんがいるから」と、残ったスタッフ達の肉体的、精神的疲労は計り知れないものでした。

今年で開設35年の病院は、当時は全館に自家発電が配備されておらず、主要なところのみでした。そのため、日の出と共に食事の支度をはじめ、日の入り前に食事を終わらせて、車のライトで給食室を照らしながらの片付け。精神科の患者さんに、「ごめんね。私が作るからおいしくないでしょ?」と聞いたのですが、「大丈夫だよ、事務長のご飯は、ご飯の量が多いからみんな喜んでいるよ~。」と慰められました。

とにかく食べてもらうことが優先でしたので、カロリーまで考えて作る余裕はありませんでした。それでも一日3食、食事を提供し続けました。トイレに入るには、右手に懐中電灯、左手に汚物を流すための水の入ったバケツ。うっかり懐中電灯を忘れて入って、ドアをしめた後に真っ暗で気がついて、慌てて懐中電灯をとりに行ったことも何度かありました。夜間のおむつ交換にはランタンをぶら下げて行っていました。

16日の朝に東北電力の社員の方が、対策本部からの指示で、予備電源をトラックに積んできてくれました。そのまま置いて帰られるのかと思ったのですが、危機的状況にある病院をこのままにはできないと、小雨の中、切れた電線を遠くからつないでくださったのです。夕方に全館に電気がついた瞬間、暗闇の中から一気に明るくなって、まぶしさのあまり、めまいがしました。その場にいたスタッフもみな同じだったと言っていました。

あくまでも仮設なので、強風などで切れてしまうかもしれません、と言われていたので、屋内退避が解除さるまで、強風が吹き荒れると、また停電になるかもしれない不安から、「風、やんで!」と祈りながら過ごしていたので、眠らず朝を迎えることもありました。同じ日に自衛隊が水を補給にきてくださって、とりあえずの水と電気の心配はなくなりました。

しかし、スタッフは、交代要員のいない連続勤務を続けていました。仮眠だけでは取り切れない疲労。足がむくんで腫れたようになって、痛みで階段がおりられないスタッフもいました。気を抜くと睡魔に襲われ、立ったまま寝てしまう。それでも明るく働くスタッフ達に、かける言葉は「ありがとう」だけでした。「大丈夫?」と声をかけても「大丈夫!」と返ってくるだけなので、なんの意味もない。「がんばろう」という言葉も軽すぎる。

本当はもうこれ以上がんばらせたくない、休ませてあげたい。このスタッフ達がいるから、絶対に患者さんは大丈夫だと信頼していました。だから「ありがとう」という言葉だけを言い続けるしかなかったのです。それでもいつか、誰かが倒れるかもしれない、そんな恐怖を押し殺しながら、明るく笑顔でいるスタッフの前では、私も「ありがとうね~」と笑っているしかなかったのです。

対策本部とのメールに「(スタッフは)患者さんを守るために必死です。彼らを守るために、私は、食事を準備して、雑用をこなし、こうして外部と折衝する以外何もできません。どうかスタッフを助けてください。」というのが残っています。医療や看護の業務ができない自分の、無力さに苦しんでいたときの、唯一の願いでした。

半年後にスタッフが、「実はね。」と話しかけてきました。「あの時本当は、これからどうなるのだろう、もうダメかなって思ったこともあったけど、事務長が「大丈夫、大丈夫」って笑っていたから、だから大丈夫だなって思ったの。笑っていてくれてありがとう。」と。

その当時私が使っていた携帯会社は、アンテナが津波で壊れてしまったため、電話は途切れ途切れしかつながらず、どうにか電波の良いところを探して、メールが使えるくらいでしたが、今メールの送受信履歴をみると、朝は4時頃から夜は2時過ぎくらいまで、県の災害対策本部とのやりとりの記録が残っています。

内容は最初の頃は主に状況や人、水や燃料などの補給のお願い。その後は避難についてのやりとりでした。中には院長からのメッセージで、「病院周辺の放射線漏れの影響は最高値でも、1回の胃透視と同程度で害はありません。人を送ってくださるなら、放射能の心配はないとお伝えください」というのもありました。現地の情報が伝わらないもどかしさを感じていたのかもしれません。

そんな危機を乗り越え、屋内退避が解除されてからは、少しずつ人や物も入ってくるようになりました。その後広野町は「緊急時避難区域」に設定されました。「緊急時に避難するために準備しておく区域」というのが読んで字のごとくですが、実際は、その為には、自力で避難できない子供・要介護者・入院患者・自宅療養者は住んでいてはいけませんよ、とされたのです。

つまり入院患者は存在してはいけない区域になったのです。患者さんごと搬送すればよかったのでは、とおっしゃる方もいました。しかし同じ頃、警戒区域から長時間の無理な搬送により、急激な体調の変化で、多くの患者さんの命が失われていたのも事実です。

さて、双葉郡で唯一患者さんと共に残った病院は、町が国と県に報告した「全町民避難」完了より、存在が消されました。国の定めた「緊急時避難準備区域」の文言に反するような病院はあってはならなかったのです。震災後、院長は、医師免許を剥脱されても構わないから、死亡する確率の高い患者さんは、動かさないと言っていました。すでにその頃から、私達の、地域医療と患者さんを守る戦いは始まっていたのです。

(2016年3月10日Vol.064 「そこに存在してはいけないとされた病院」福島県双葉郡広野町・高野病院奮戦記 第5回より転載)



https://medical-tribune.co.jp/news/2016/0311500436/
3.11から5年,岩手は"災害医療人"育成,子供も訓練
第21回日本集団災害医学会
2016.03.11 07:15 Medical Tribune

 東日本大震災から5年目を迎えた被災地から,当時を振り返り,今後に向けた"逞しい"取り組みが第21回日本集団災害医学会総会・学術集会(2月27~29日,会長=山形県立中央病院副院長/救命救急センター副所長・森野一真氏)で報告された(関連記事)。岩手県における詳細な活動として,防災・危機管理に携わる"災害医療人"を"オール岩手"で育成する試み,さらに大規模災害発生時の福祉関連の取り組みの他,学校・地域で子供や保護者も参加し,津波以外の大規模災害を想定して実施している総合防災訓練についても発表された。

岩手県災害派遣福祉チームを発足

 岩手医科大学災害医学講座教授の眞瀬智彦氏によると,東日本大震災における課題として,①当初に想定していた疾病構造が外傷診療であったが慢性疾患への対応が求められた②避難所・仮設住宅での長期生活が余儀なくされたことによる公衆衛生的対応が必要になった③通信途絶のために情報収集が困難であった④長期における指揮本部調整機能が必要であった⑤本部における災害医療を支えるロジスティック機能が脆弱であった-などが挙げられた。

 災害医療従事者には,①急性期の外傷治療から慢性の内因性疾患の治療②公衆衛生の知識③サイコロジカル・ファーストエイド(心理的応急措置:PFA)④総合調整-といった役割が求められる。

 そこで,岩手県では地域防災ネットワーク協議会が主体となり,救急の外傷診療だけでなく総合診療を実践できる人材,災害医療を支えてコーディネートできる人材,すなわち災害医療人を"オール岩手"で育成することに取り組んでいる。

 岩手医科大学は2011年9月に災害医学講座,2012年3月には災害・地域精神医学講座をそれぞれ開講,2013年4月には災害地域医療支援教育センターとこどものケアセンターを開設した。研修医や医学生だけでなく,小・中・高生を含めた教育の機会を設けている。

 また,震災当時を振り返ると,高齢者や障害者への対応などに関して脆弱性が指摘された福祉関連分野については,岩手県災害派遣福祉チームが発足しており,研修や訓練などを行っている。

学校・家庭・地域で子供・保護者など1万人が参加して総合防災訓練を実施

 さらに,"いわて復興教育"として「郷土を愛し,その復興・発展,地域防災を支える人材を育成する」ために,同県教育委員会事業として「学校・防災対応指針」などを策定し,学校・地域における総合防災訓練を実施している。事業について,同委員会事務局学校教育室の森本晋也氏が報告した。

小学生がトリアージ,災害衛星電話,炊き出し,仮設トイレづくりといった実習

 森本氏によると,訓練には教職員だけでなく,小児や保護者も参加しており,地域で波及していく効果も期待できるという。

 訓練では,小学生や中学生なども災害時の医療体制や緊急時の行動,トリアージ,災害衛星電話やトランシーバを用いた連絡,炊き出し,災害時の仮設トイレづくりといった実習を受ける。実習を通じて,地域の安全に役立つ生徒らの役割を主体的に果たし,協調できる人材を育成することを目的としている。

 訓練は,津波災害だけにとどまらず,火山噴火,豪雨による土石流といった災害発生なども想定して行われている。これまで,学校・家庭・地域が連携し1万人規模で実施された防災学習および訓練もあるという。


 最後に,眞瀬氏は「災害医療は,ロジスティック機能も含めたチーム医療として,他職種との連携した研修体制の構築や総合防災訓練を実施していくことが重要である。同じ事態を2度と繰り返さないためにも,オール岩手で災害医療人を育成したい。さらに,後世にも伝承していきたい」と総括した。

(金本正章)


  1. 2016/03/12(土) 07:35:13|
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