Doctor G 3 のメディカル・ポプリ

地域医療とプライマリケア、総合診療などに関係したネット上のニュースを記録。医学教育、研修、卒後キャリア、一般診療の話題、政策、そしてたまたまG3が関心を持ったものまで。ときどき海外のニュースも。

3月10日 3.11震災関連 

http://www.msf.or.jp/news/detail/special_2834.html
特集3.11:被災地に新たな1歩――震災から5年
2016年03月10日掲載 国境なき医師団

2011年3月11日に東北地方で発生した、マグニチュード9.0の大地震と巨大津波。その甚大な被害に対応するため、国境なき医師団(MSF)は直後に緊急援助活動を立ち上げ、情報収集と先遣チームの派遣準備を開始しました。

あの日から5年。当時MSFが立ち上げた活動と、寄贈した施設や機材の一部は、今なお、岩手県宮古市と宮城県南三陸町で、地元の方々が大切に使われています。当時の活動を振り返りながら、支援を続ける方々と利用者の皆さんの声で、現地の今をお伝えします。

活動データ(2011年3~12月)

診療件数      4356件
救援物資配布    毛布:4030枚、飲用水:6500リットル、衛生用品キット:1万セット、
          生活用品キット:4000セット
医薬品・機材寄贈  医療物資:計11万ユーロ(約1300万円)相当、発電機:1台、
          貯水槽:2ヵ所、通院用バス:    2台、車椅子用車両:1台
その他       避難所などの電気設備改良工事、仮設住宅建設支援、仮設診療所建設、医療機材寄贈


2011年3月の震災直後から国境なき医師団(MSF)宮城県に入り、そこから北上しながら医療が届いていない地域で移動診療を開始しました。当時、活動拠点となった宮城県南三陸町と岩手県宮古市田老の、当時と今を写真でつづります。


震災5年に寄せて ― 派遣スタッフの声 ―

加藤 寛幸/小児科医

あの日、テレビ画面に映し出された凄まじい映像は、5年経った今でも多くの人の脳裏に焼き付いているのではないだろうか。山形経由で陸路現地入りした私は、避難所での診療とニーズの調査を並行しながら三陸の海岸を北上した。日本国内に車両や薬剤を備蓄していない国境なき医師団(MSF)は、当初、現地のタクシーと徒歩だけを頼りに薬を背負って避難所を回った。

目にする景色はどれも想像を絶するものだった。家族を亡くしながら必死に避難所での診療を続けていた医師や看護師にかける言葉はなかなか見つからなかった。子どもと共に避難所に担ぎ込まれた母親は、頭に大けがを負って多量の出血をしていた。病院への搬送を決めて救急車に乗せようとすると、その母親はもうろうとする意識の中で「子どもを救急車に一緒に乗せてほしい」と懇願した。夫と親族が行方不明の状況で、子どもと離れることを恐れたのだろう。幸い一命を取り留めた彼女が眠るそば一人座る子どもの後ろ姿を忘れることはできない。

昨年から不定期ながら福島南相馬での救急診療の手伝いを始めたが、現地に入るたびに、決して癒えることのない震災の深い傷跡を思い知らされる。いまだに多くの母親と子どもたちは帰還していない。長く続いた避難生活によって家族がバラバラになってしまったり、仕事を失ってしまった多くの人たちは、未来への希望を持てない中で暮らしている。近々避難解除が予定されている地域もあるが、戻って来るのはお年寄りばかりだろうと、聞く。

小児科医として診療をしてきた中で、子どもを亡くした親の悲しみはどんなに時間が経っても決して癒されないということを学んだ。被災地に暮らす彼らの5年間は苦悩に満ちたものだったであろう。そして、その苦しみや悲しみの出口はまだ見つからない。私に出来ることは決して多くないが、これからも彼らに想いを寄せながら、震災を風化させてしまわないよう声を上げていきたい。

道津 美岐子/看護師

あの2011年3月11日から丸5年。私は、震災発生翌日から国境なき医師団(MSF)先遣チームの現地責任者として被災地域に入った。少ない情報のまま現地入りし、目の当たりにした現状は、私達の予想をはるかに超えた悲惨なものだった。

今思い返して言えることは、「あの時は、皆、とにかく必死だった」ということ。余震が続く中、早朝から避難所を巡回し診療を行うメンバー一人ひとりの「何とか手助けをしたい」という気持ちが、ひしひしと伝わってきた。私自身はチームリーダーとしてバックアップするため、地方自治団体との交渉やMSF日本事務所との連絡・報告、チームの安全対策に努めた。

4月以降、私は田老診療所の支援チームのリーダーとして、診療所のスタッフ、他支援団体の方々、市職員の方々と共に働いたが、皆さんとても協力的で、"一致団結"して被災者支援ができたことに感謝している。特に診療所スタッフとは、仮設診療所設立にあたってアイディアを出し合い、話し合いを重ね、できる限り希望に沿ったものを完成することができた。

あの震災の悲惨さを忘れないように、またあの時出会った素敵な仲間に会うために、これからも被災地を訪れたいと思う。私は昨年12月末から、タンザニアの難民キャンプで活動している。今年の3月11日には、遠いアフリカの地より追悼の意を捧げたい。

小野 不二雄/ロジスティシャン

東日本大震災後の宮古市田老での国境なき医師団(MSF)の主な活動は、グリーンピア三陸みやこに避難した人びとやライフラインが途絶えた周辺の住民の方々に医療を提供する田老診療所を支援することだった。ロジスティシャンの私は、診療所スタッフと共に働くMSFの医療従事者と連携して、必要な物資や車両などの調達を行った。

ほとんどの避難者は、家族を失い、家を失い、絶望と闘っていた。そしてそれは、診療所スタッフも同じだったはずだ。にもかかわらず、診療所の方々は皆、それを笑顔の裏に隠し、私たちに接してくれ、患者さんに対応していた。

震災から5年ということで、テレビなどメディアでの報道も増えている。そこに暮らす人たちは表向きには笑顔があり、以前とは違う暮らしに戸惑いながらも前に進もうとしている。それでも、私が当時知り合った人たちの顔を思い出すとき、彼らの当時の心の中を思い、そして今の心情を想像すると、つらいものがこみ上げてくる。

2012年の秋に田老を訪れたが、田老の町はまだ復興には遠い状況だった。さらに時が経ち、5年の歳月が過ぎて、田老の町も変わってきていると聞く。今ではなかなか田老に行く機会も作れず、直接の支援もできていない。しかし当時、田老の人たちと短いながらも生活した者として、田老の人たちの心を思いながら、町の復興を見守っていきたいという思いをあらためて胸に刻んでいる。



http://www.msf.or.jp/news/detail/headline_2867.html
東日本大震災5年:今も人が集う、支え合いと心理ケアのテントカフェ
2016年03月10日掲載 国境なき医師団

「震災直後、1万人近くが避難していた宮城県南三陸町から医療援助の要請を受け、約20ヵ所の避難所で移動診療を開始しました。避難所で暮らす6~7割が高齢者で、糖尿病や心臓病など慢性疾患のある人、不眠や不安感、めまいを訴える人が多くいました」。国境なき医師団(MSF)の先遣チームの現地責任者、道津美岐子看護師は、当時の様子をこう語る。MSFは4月には、臨床心理士がスタッフを務める「カフェあづま~れ」を南三陸町ベイサイド・アリーナ前に開設。6月初旬までに、約2200人がこの場所を利用した。

同年6月、MSFはその緊急援助を終えるあたり、カフェの施設と運営を南三陸町社会福祉協議会(以下、協議会)への引き継ぎを進めた。協議会の猪又隆弘事務局長は、「カフェとして設置していたテントを譲ってほしいという声はいくつもありました。その中から、地元のスタッフが地元の住民のために活用していきたいという私たち思いを汲んで、MSFが譲渡先に決めてくれました」と、当時を振り返る。

引き継がれる傾聴と見守り

協議会は移設を進め、7月から南三陸町歌津の平和の森で、カフェあづま~れを再開。心理ケアは東日本大震災心理支援センターがバトンをつなぎ、宮城県臨床心理士会(以下、県士会)にその活動が引き継がれている。2011年10月から2016年1月までのカフェ利用者は、9万4155人にのぼる。

2011年7月からカフェ支援を開始した県士会の佐々木美奈子さんは、活動を続ける臨床心理士のひとり。「MSFがスタートし、心理支援センターに引き継がれた、臨床心理士であることを全面に出さない傾聴の姿勢は、大変よかったと思います。私たちもその向き合い方を続けて、適度な距離を置いた見守りの姿勢を基本としています」

「この5年間、個人によって時期はさまざまですが、行きつ戻りつしながら、辛い経験を少しずつ受け入れられているように感じます。3年くらい経ってから、一気にたくさんのことをお話になった方もいました。普段カフェでは世間話や愚痴やその時々の楽しいことなどが話題の中心です。皆さんが、支援される側から、もともとお持ちだった『おもてなし』の心を徐々に発揮される場面も増えて、気持ちの復興も進んでいると感じます」

支援スタッフも利用者も、カフェでの経験をこれからの日々に

テントは5年のうちに、台風や積雪で傷み、何度か修繕を受けながら使われ続けている。「ここに来れば誰かがいると心の支えとなり、集った人たちが友人となって胸の内を語り合い、互いの見守りにもなってきました」と、利用者に寄り添い続ける、協議会・生活支援員の千葉ユミさん。

協議会の猪又さんは、震災から5年を迎える今、南三陸町は次のステージに移る過渡期にいると語る。「支援を受ける側から、自立するステージへ。ハード面では、災害公営住宅への入居や高台移転が始まり、2年後には仮設住宅もなくなるでしょう。これから2年かけて、カフェあづま~れも、老人福祉センターの中に移していきます。ただ、ソフト面は、これからが踏ん張りどころです。仮設住宅に暮らす人びとの寂しさをどう受け止めるか、カフェはその役割をずっと担ってきましたから。はい、ここはなくなります、向こうへどうぞ、とはいきません。失ったものが大きい分、未来への安心を確実に持ってもらうことが大切です。だから、カフェは時間をかけて移行していきます。建物の中に作っても、利用者に敷居の低い場所になるように。今後はその役割も、被災者支援から、生き甲斐づくり支援へと変わっていくのです」



http://www.msf.or.jp/news/detail/headline_2868.html
東日本大震災5年:MSF寄贈の仮設診療所から、新診療所へ
2016年03月10日掲載 国境なき医師団

岩手県宮古市田老地区でも、国境なき医師団(MSF)は震災直後から、移動診療と心理ケアを開始。さらに、地区の宿泊施設「グリーンピア三陸みやこ」の3階に診療スペースを設置し、震災で田老診療所を失った医師、看護師と被災者の支援にあたった。また、2011年6月下旬からは同施設の2階に、診療室、レントゲン室など7室を備えた仮設田老診療所の建設をスタート。同年12月に、内視鏡・超音波検査機器等とともに宮古市に寄贈した。

震災から5年。今もグリーンピア三陸みやこで現役で稼働する、仮設田老診療所を訪ねた。

診療所職員とMSFで設計した仮設診療所

「震災から5年になりますが、この診療所はとても"仮設"とは言えないつくりで、快適に仕事をさせていただいています。建設当時、MSFの建築士・山住邦夫さんを中心に、建築業者さん、医師や看護師たちで何度も検討を重ねて設計しました。機能的で動線が整っていて、とても使い勝手がいいんです」と、田老診療所の看護師長、船越祐子さんと、上席臨床検査技師、山本弘美さんは声をそろえる。

同診療所の所長で医師の橋本祥弘さんは、通院する人の大半は震災後も地区に残った高齢者で、高血圧症や呼吸器などの慢性疾患が多いと言う。「肺炎や脳卒中といった急性疾患の場合には、二次病院である宮古病院に搬送し、容体が安定したのち、かかりつけ医である田老診療所に戻ってこられます。この冬はインフルエンザが流行って、住民の人だけでなく、復興のために全国から来ている建築現場の方たちも来院されました」

震災前も震災後も、田老診療所は地域のより所

震災前、旧田老診療所のそばに家があったという木村和子さんは、震災前からリウマチで診療所に通院していた。「月に1回、こちらに診療とお薬をもらいに通っていますが、今日は主人も腰の具合が悪いというので、近所の方にここまで送り迎えしていただきました。こうして病院が続いて、本当に助かっています。今は新しい住まいで暮らしていますが、昔の町はなくなり、妹と妹の孫は今も行方不明のままです。長いような短いような5年でした」

また、宮古市が運行する「患者バス」を利用して通院しているという山本トキさんは、「診療所にはずっと、高血圧と骨粗しょう症で通っています。先生や看護師さんが、とてもよくしてくださいます」と、ほほえむ。

新田老診療所が、6月に高台造成地に完成

現在、仮設田老診療所は、医師1名、看護師4名、検査技師1名、レントゲン技師1名、事務・受付4名、清掃1名の計12名の職員で運営されている。仮設田老診療所の事務長、中坪清見さんによると、現在、高台に造成中の新しい町に新田老診療所を建築中で、2016年6月に完成、8月の稼働開始を目指す。新田老診療所は、約600平米の木造平屋建てで、現在のスタッフで外来診療を続ける予定だ。

中坪さんは震災当時、宮古市田老総合事務所の所長を務め、MSFとの連携窓口で、仮設田老診療所建設の宮古市側の担当者でもあった。「新しい田老の町が出来上がり、住民の移転が完了するには、まだ時間がかかります。診療所も、やっとという思いです。MSFから寄贈いただいた医療機材はまだ十分使えるため、一部を除いて、ほぼそのまま新診療所で利用します。震災から5年経っても、こうして田老のことを覚えていてくださって、皆、本当にうれしく思っています」



https://www.m3.com/news/iryoishin/406042
シリーズ: 東日本大震災から5年
被災地、「高齢、困窮、メンタルヘルス」の患者増◆Vol.7
「進行がんが増えた印象」 「刺青持ちは当たり前」

医師調査 2016年3月10日 (木)配信 高橋直純(m3.com編集部)

Q 震災前と比べて、2016年時点の患者の動向に変化はありますか。【複数選択】
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 患者動向では、3県全体では「高齢層が増えた」が44%で最多。「生活困窮者が増えた」35%、「メンタルヘルスの患者が増えた」29%と続いた。

 県別に見ると、福島県で「若年層が減った」「受診回数が増えた」「生活習慣病の患者が増えた」という回答が、宮城、岩手両県の2倍超となっていた。「メンタルヘルス」も高い傾向にあり、原発事故の影響が関連している可能性をうかがわせた。

■患者動向の変化について
【岩手県】

・高齢者が増加し、生活困窮者が増加してきている。

・生活習慣病、不活発病に起因する病態が増えた。高齢者も増えたが、徐々に当地からの流出も増えてきた。若年者の復興関連事業による外傷や傷病は震災以前より増えており、しかも忙しいことを理由に十分な治療を受けてもらえない。復興関連事業者や事業所は、かなりブラックな状態と思われる。自覚してくれない患者も多い。衛生観念の低回、栄養摂取に関心が向けられていない。偏食、多飲も問題である。

・被災者の医療費の減免はあるが、交通手段の問題が依然として残り、受診抑制は潜在化しているように思う。

【宮城県】
・沿岸部からの移住者が増えた。

・人口そのものが減った。特に子供が減った。

・放射線を避けてみんなが町から出て行った

・透析専門クリニックなので、人数に限界があり、震災後3年程度で、ほぼいっぱいとなっている。

・直後から1年ほどは明らかに減った。ようやく沿岸地域に人が戻り、患者数は回復したような印象。

・周辺住民は津波被害で家を取り壊し、仮設住宅、復興住宅に引っ越したため患者数は減った。被災者の医療費無料化がおおむね打ち切られた段階で患者数は約20%程度減少している。未だ震災前の状態までには至っていない。

・震災から2年程度は患者への援助があり受診者数が非常に多かった。患者数はその後減ったが、現在は持ち直している。

・開業医が激減したため、公的医療機関の負担が増大。

・2012年は医療費の自己負担が免除の方の受診が多かったため、数字としては最大で、その後、徐々に減少している印象がある。

・2-3割減った。当地に住民登録はしていても、転居して遠方に住んでいる人が多い。そのような人々は避難先に家を新築してしまう。被災地では仕事も減っているので、帰ってきても生活ができない。

・実際の通院者としては減ってきている。特に沿岸部では死者が多数出ているので、病院の規模を小さくしたところもある。
・震災後、診療・治療の無料な時期は、手術件数は増えていた。現在は、2011年まで戻っている。

【福島県】
・当院は田舎にあるが、農作物が売れず、住民がお金がなくて困っている。

・津波の被災の患者は生活困窮者も多い。逆に原発被災者は補償金をもらっているので仕事をせずとも裕福になった人が多い。

・今まで放置していたが、医療費控除で受診するようになった。

・民度が低いため、生保患者と若年層の無理解が著しい。

・30日分を超える処方要請が増えた。

・退院後の受け皿がない。

・診療科によっても患者層は違うと思いますが、進行がんの患者が多くなったような印象を持っています。もう少し早くかかれなかったのかなと残念に思っています。

・除染作業員には素行不良者が多く、困ったことが数回あり。

・原発事故により避難してきた方が、患者さんとして来院する機会が増えています。

・高齢者の一人暮らし、生活保護者が増えた。特に男性の中年の独身者、生活保護者が増えているように思う。

・精神的疾患の患者が増えたような気がする。

・被災者への医療費無料化が今年3月までらしく、それまでに「それほど重症でもない疾患」「有料なら治療しない疾患」に対して、3月までに治療してほしいという要望が多い。検査が減りました。

・除染作業者の受診者が増えました。刺青持ちは当たり前。診察料を踏み倒されることもしばしばです。また自己負担を免除されている避難者も多く、夜中でもなんでも受診する患者(多くはありませんが)もいるために、当直医の負担が非常に増えています。当直料のみでは割の合わない当直が多くなっています。

・作業員の新患が増えた。風邪などもそうだが、高血圧などの慢性疾患を持っている方も増えた。なぜか数カ月で現場が移動するらしく、ある一定の数で動いている。

・医療費のため、治療の選択が狭められる患者さんが増えた。生活習慣病が増加している。

・わがままな患者が増えたかな。特に「原発」の避難患者。

・震災の影響というよりは、その後の大雪や水害の影響で、県内の他の地域や県外へ移住する家族が目立った印象がある。

・職を失い体を動かさない、食生活の管理不足で生活習慣病の増加。特にⅡ型糖尿病、高血圧症の増加、高齢者の廃用症候群、認知症の増加。

・未収納の除染作業員が増えた。

・産業医の立場から言えば、避難に伴う離散家族が増加し、残留している家族(社員)のうつ傾向が増えた。



http://www.asahi.com/articles/ASJ3B7DWTJ3BUBQU00X.html
震災関連死、3県で3405人 長期避難、心身に影響
東郷隆、黒田壮吉、伊藤嘉孝
2016年3月10日22時12分 朝日新聞

 東日本大震災や東京電力福島第一原発事故の避難生活による体調悪化などが原因の「震災関連死」は2月末時点で、岩手、宮城、福島3県で計3405人に上った。昨年3月以降も少なくとも11人が亡くなり、関連死とされた。11日で震災から丸5年。長期にわたる避難が、被災者の心身に影響し続けている。

■半数超が福島

 3県によると、今年2月末までに震災関連死と認定されたのは、岩手459人▽宮城920人▽福島2026人。昨年3月末以降129人が認定され、うち112人は福島だった。福島ではその後、9日現在でさらに5人増えている。

 市町村別では、福島県南相馬市が485人と最多で、同県浪江町380人、同県富岡町が336人と、福島第一原発周辺の被災者が目立つ。原発事故で今も10万人近くが県内外に避難する福島では、関連死の数が津波や家屋の倒壊など震災が直接の死因となった1613人(警察庁まとめ)を上回っている。

 福島第一原発に近い町では昨年4月、90代男性が肺炎で亡くなり、関連死と認定された。原発事故直後、避難所を転々とする中で、食事も十分に取れずに病状が悪化。その後、介護施設に入り、治療も受けたが、回復しなかった。

 被災地では震災、原発事故に関する自殺も相次ぎ、一部は関連死と認定されている。内閣府によると、集計を始めた2011年6月から今年1月末までに3県で157人が自殺した。岩手35人▽宮城40人▽福島82人だった。

 福島では、毎年2桁が続き、昨年は19人。宮城では震災直後の11年は22人、岩手で17人だったが、昨年は宮城1人、岩手3人に減った。内閣府の担当者は「福島では、原発事故で避難が長期化し、将来の生活が見通せないことが心身に悪影響を与えているのではないか」と話す。

(東郷隆、黒田壮吉、伊藤嘉孝)

【震災関連死】 震災後の避難生活で体調が悪化して亡くなること。遺族側が市町村に審査を求め、震災や原発事故との因果関係を調べて認定する。自殺についても認められることがある。申請期限はなく、今年度に認定された人でも、死亡したのは昨年度以前、という場合もある。震災関連死と認められれば、生計を支えていた人は500万円、それ以外は250万円の災害弔慰金が支給される。


  1. 2016/03/11(金) 06:09:51|
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