Doctor G 3 のメディカル・ポプリ

地域医療とプライマリケア、総合診療などに関係したネット上のニュースを記録。医学教育、研修、卒後キャリア、一般診療の話題、政策、そしてたまたまG3が関心を持ったものまで。ときどき海外のニュースも。

3月6日 3.11震災関連 

https://www.m3.com/news/iryoishin/402090?dcf_doctor=true&portalId=mailmag&mmp=MD160306&dcf_doctor=true&mc.l=147061622
シリーズ: 東日本大震災から5年
宮城県被災地の医療、「新たなステージ」【宮城編◆Vol.7】
臨時対応から恒久的な医師確保に課題シフト

スペシャル企画 2016年3月6日 (日)配信橋本佳子(m3.com編集長)

 「東日本大震災から5年(被災地の今)」の【宮城編】では、主に医師の視点から、病院再建の現状をリポートした。震災から5年が経ち、甚大な津波の被害を受けた宮城県沿岸部でも、病院の復旧、復興は進む。もっとも、新築移転して新たな一歩を踏み出しても、課題は残る。短期的な支援ではなく、長期的な視点に立ち、地域医療に従事する医師をいかに養成、確保するかだ。

 「震災から5年が経ち、被災地の医療は新しいステージに入りつつある」

石井正氏
 東日本大震災の直後から被災地の医療に携わってきた立場から、こう語るのは石井正氏だ。石井氏の今の肩書は、東北大学病院総合地域医療教育支援部教授。震災当時は、石巻赤十字病院(宮城県石巻市)の第一外科部長であり、石巻圏全体の医療救護のジェネラルマネジャーとして指揮を執った(『現地リポート、震災から3週間の石巻・女川の今』を参照)。

 震災に伴う津波で、特に甚大な被害を受けた宮城県沿岸部。震災から5年が経ち、全壊した2つの病院が相次いで再始動する。既に南三陸病院(宮城県南三陸町)が2015年12月に新築移転して開設、石巻市立病院(宮城県仙台市)も今年9月に新築移転してオープンする予定だ(『「南三陸病院」、2015年12月に開設【宮城編◆Vol.1】』、『全壊した石巻市立病院、9月に新病院【宮城編◆Vol.4】』を参照)。石巻市立病院の全壊で、常にフル稼働をしていた石巻赤十字病院も増改築を行い、402床から464床に増床。気仙沼市立病院も2017年度中の開院を目指し、リニューアルを進めている。女川町立病院も、運営主体が地域医療振興協会に代わり、女川地域医療センターとして再スタートを切っている(『女川町立病院、地域医療振興協会が再生【宮城編◆Vo.3】』を参照)。

 石井氏が「新しいステージ」と称したのは、甚大な被害を受けたこれらの地域において、ハード面が整いつつある今、次なる課題は運営面であり、特に人材リソースをいかに安定的に確保するかが重要になってくるからだ。

 宮城県沿岸部は、そもそも震災前から医師不足に悩んでいた地域。震災後、多くのボランティアが医療支援に入ったものの、徐々に引き揚げ、今は、東北大学の東北メディカル・メガバンク機構の「循環型医師支援システム」で医師を送り、支援を続ける。これは、3人の医師で「1ライン」を作り、年間を通じて常勤換算で医師1人分の支援を行う仕組み。各医師は4カ月は沿岸部の病院に、残る8カ月は東北大で臨床・研究に従事する(『東北大「循環型医師支援システム」、延べ78人参加【宮城編◆Vol.5】』を参照)。

 ただし、東北メディカル・メガバンク機構の運営は、復興予算で賄っており、「循環型医師支援システム」をいつまで継続できるかは未定。「今の仕組みは少しずつフェードアウトし、恒久的な仕組みにシフトしていく必要があるだろう」と語る石井氏。「循環型医師支援システム」には、他大学、他地域からの参加もあるものの、東北大の各診療科の助教クラスがメーンで、交代で活動する。参加する医師にとっては、研究を続けながら、地域医療に従事できるメリットを享受できるものの、もうすぐ5年目に入るため、「皆が少し疲れて来ているのではないか」と石井氏は見る。

 新専門医制とも連動させ地域定着図る
 将来を見据え、東北大は、地域医療を恒久的に支える仕組み作りを始めている。同大は、震災前から宮城県に限らず、広く東北6県の病院に、医師を派遣し、地域医療を支えてきた。ただ、卒業後、そのまま東北大に残ったり、あるいは他の病院で研さんを積んだ後、東北大に籍を置く医師の割合(帰学率)の低下もあり、徐々に医師の派遣が難しくなってきていたのも事実だ。

 取り組みの一つは、宮城県の医学生修学資金の貸与を受けた医師のキャリア形成支援だ。「宮城県医師育成機構」と連携し、宮城県に定着しつつキャリアアップできる仕組みを目指す。医学生修学資金の貸与者は、2011年度は14人、2012年度と2015年度は各28人だったが、2014年度は54人、2015年度は44人で、おおむね40~50人で推移している。そのおかげもあり、宮城県では卒後臨床研修のマッチングで、フルマッチの市中病院も少なくない。

 2013年度からは文部科学省の「未来医療研究人材養成拠点形成事業」において、「コンダクター型総合診療医の養成」にも取り組んでいる(同プログラムのホームページ参照)。大学病院と地域病院とが一体となり、医療と介護、福祉をつなげる“指揮者”(コンダクター)を育成する総合診療医教育プログラムだ。

 2017年度から開始予定の新専門医制度の研修プログラムでは、修学資金の貸与者が、宮城県内で義務年限を果たしつつ、専門医を取得できるよう、各専門研修プログラムに貸与者向けのコースを作る予定だ。東北大の内科と外科では、既にその準備を進めている。

 帰学率向上に向け卒業生のデータベース作り
 ユニークなのが、帰学率の向上への取り組み。石井氏が卒業した1989年当時、医師の帰学率は9割を超えたが、減少傾向にあり、特に2004年度の臨床研修の必修化以降に減り、今は7割前後。一方で、2008年度以降、医学部定員が増加し、それ以前は1学年100人だったが、今は135人にまで増えた。それと比例して教員が増加したわけではなく、地域医療を支えるだけでなく、医学教育の面でも、帰学率向上が課題となっている。

 「問題はいったん大学を離れてしまうと、卒業生がどこに勤務し、何を専門にしているかを把握できないこと」と石井氏。この問題を解決するため、東北大卒業生のデータベース作りに着手、勤務先や診療科、専門などのキャリアに関する情報を把握するほか、同窓会のお知らせを配布するなど、さまざまなアプローチを行うのが目的だ。今年3月卒業の医学部6年生に対しては、個人情報の取得と今後の連絡の可否、継続的な調査実施について、同意するか否かについて調査を終えた。例えば、大学を離れ、個人でキャリアを積んでいても、途中でうまく行かなくなることもあり得る。そんな場合に卒業生のネットワークを活用し、相談することも可能。そのほか、帰学率のために、勤務環境の改善などさまざまな支援策を今、検討中だ。

 「大学」は一般的に、「医局の集合体」であり、各医局の運営は独自性が高い。東北大の今の動きは、大学という組織を挙げて、地域医療支援や医師のキャリア形成に関与する仕組みとして注目される。



http://www.hochi.co.jp/topics/20160306-OHT1T50034.html
【3・11から5年】「絆診療所」遠藤清次院長<後編>最後の仮設なくなるまで“みんなの集会所”
2016年3月6日13時0分 スポーツ報知

 福島県南相馬市鹿島区にある「絆診療所」の院長・遠藤清次さん(59)は、東京電力福島第1原発の事故により故郷への帰還が困難な高齢者たちの健康だけではなく、心の支えとなって治療を続けている。仮設住宅で暮らす人たちにとって最も大切なのは、診療所の名前と同じ「絆」。遠藤さんは、診療所の存在が、絆の結び目となることを願っている。(取材、構成・高柳 哲人)

 診療所に来る患者さんをみる時は、「体の健康」だけではなく「心の健康」もワンセットです。治療は患者さんの話を聞き、その人の“背景”から、どんな問題があるかを見つけ出す。それをどう解決できるかを一緒に考えます。その意味では「よろず相談所」。病気によって、入院などが必要であれば近くの大きな病院を紹介する。診療所はあくまで、「かかりつけ」的な位置なので。

 以前の病院では、私は外科が専門。現在は専門医が重んじられる傾向があり、それは医療の一面として重要ですが、この診療所のように総合医療が必要な場所もある。医療とは人と人のつながり。「絆診療所」という名前も、そこから決めました。絆こそが、人生に大切なものだと思うようになりました。若い医師にも、それを学んでほしいと思います。以前は、福島大の医学部の学生がうちの診療所を見に来たことがありますが、もし「研修してみたい」という人がいたら、大歓迎です(笑い)。

 今は、毎日、「診療所をやって良かった」と感じています。空いている時間には仮設住宅にも往診に行きますし、26か所の集会所を回って住民の相談にも乗ります。そこで「今日は楽しかった」という言葉を聞くと、とりわけ「良かった」と感じますね。

 残念ながら、故郷に帰れずに亡くなられる方もいます。市内の病院で最期を迎えたので、みとることができませんでしたが、後から聞くと「仮設で死にたくない」とずっと口にしていた人がいたそうです。また「このまま戻れないで、ここで死ぬのかな…」とつぶやく患者さんもいます。実際、仮設では高齢者の1人、もしくは2人暮らしがほとんど。何かの理由で寝込むことになってしまったら、亡くなってしまう人もたくさんいるでしょう。

 その人たちは、原発事故さえなかったら避難前の家で他の家族と一緒に住んでいたはずですが、今はその家族はいない。とはいえ、何でも他人頼りで「誰かどうにかしてくれ」は、仮設住宅では通用しません。ただ、助けは必要になってくるでしょう。つまり、「自助」と「共助」がうまく機能していかないといけない。原発事故は「つながりが切れた事故」。だから、新たな場所で新たなつながりを作り、孤独死を防ぐ。それも復興だと思っています。

 その思いも込め、待合室は診療所に似合わないくらいの広さ(椅子を並べて最大約100人を収容)にしました。「みんなが集まれる場所」にしたかった。壁を白くし、スライドを映せるようにし「健康教室」などを行っています。多い時には70人ほど集まります。

 震災から間もなく5年。阪神淡路大震災では5年で仮設住宅がなくなったそうですが、ここは10年かかるとも言われています。市は4月の避難指示解除に向けて準備を始めましたが、診療所には最後の仮設がなくなるまで、みんなが集まってほしい。もし、散り散りになってしまっても、診療所を“集会所”として語らえる場所にしてほしい。そんな思いを持っています。


  1. 2016/03/07(月) 05:37:10|
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