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3月2日 3.11震災関連

https://www.m3.com/news/iryoishin/402086
シリーズ: 東日本大震災から5年
女川町立病院、地域医療振興協会が再生【宮城編◆Vo.3】
「町のかかりつけ」に特化、課題は医師不足

スペシャル企画 2016年3月2日 (水)配信橋本佳子(m3.com編集長)

 女川町立病院(宮城県女川町)が東日本大震災で被災したのは、2011年4月から地域医療振興協会に運営を委託する直前のことだ。半年遅れの同年10月に同協会が指定管理者になり、98床と介護老人保健施設50床の体制から、有床診療所「女川町地域医療センター」と、老健施設100床に転換した。保健センターも併設され、医療、介護、保健福祉の拠点としての体制は整ったものの、医師不足が課題だ。

 「震災後、当センターは町で唯一の医療機関になってしまった。人口の減少かつ高齢化が進む中、地域包括ケアシステムを構築していく上で、当センターが果たすべき役割は大きくなっている」

 こう語るのは、地域医療振興協会が運営する女川町地域医療センターのセンター長を務める斎藤充氏だ。2011年3月の東日本大震災の発生当時、同センターは、「女川町立病院」だった。医師不足もあり、経営難に陥っていた同病院の改革を進めるため、地域医療振興協会が2011年4月から指定管理者となる矢先に、震災に見舞われた。高さ約17mの高台にあった病院の1階まで津波が押し寄せ、カルテなども流出、診療不能に陥り、しばらくは仮設の体制で診療せざるを得なかった(『現地リポート、震災から3週間の石巻・女川の今◆Vol.2』を参照)。

 指定管理者となったのは、当初の予定より半年遅れの2011年10月。その後、震災前に立てていた計画を実行に移し、女川地域医療センターに改称。2012年10月には改修を終え、病院98床と介護老人保健施設50床という体制から、有床診療所19床、老健施設100床に転換した。

 震災前1万人を超えていた人口は、2015年9月の時点で7000人弱に減少。高齢化率は約34%から約37%まで上昇した。女川町のほか、離島も含め、計3カ所あった診療所は再開していない。災害公営住宅の建築もまだ途上で、町の本格的な復興はこれからだ。

 斎藤氏が、地域医療振興協会が指定管理者になる検討と準備を進めるため、女川町立病院院長として着任したのは、2010年4月。「着任当初、何年間勤務するかは決まっていなかった。震災後、行政をはじめ、町民が一体となり、一生懸命に何とか町を復興させたい、いい町にしたいと頑張っている。それを医療面で支えなければいけないと考えている。何年先になるかは分からないが、町が復興して、町民に笑顔が戻るまでは女川にいる予定」と斎藤氏は語る。

 赤字続きの病院を継承

 女川町立病院は、開院以来、赤字経営が続き、累積赤字は約10年で50億円を超していた。院長と副院長が退職し、医師2人体制になり、存亡の危機に陥っていた時に支援に入ったのが、地域医療振興協会だ。斎藤氏の着任後、一時は医師5人体制になったが、間もなく4人体制に。

 98床のうち、一般病床は50床だが、稼働率は約40%と低く、残る48床の療養病床の稼働率も約70%にとどまっていた。老健施設も50床のうち、入所者は35人前後。2010年4月から1年近くかけて、地域のニーズを踏まえつつ、少ない医師数で運営できる体制を検討した結果が、有床診への転換と老健施設の増床に加え、「病床が減ると、町民は不安に思う」(斎藤氏)配慮も踏まえ、在宅医療にも力を入れるプランだった。「この規模であれば、総合診療ができる医師が最低あと1人いれば、やっていけると考えた」という。震災後、前述のように女川町の人口は急速に減少しており、病院機能を大幅にダウンサイジングした改革プランが想定以上に合致した結果となった。ただ現時点でも、町からの運営交付金がなければ、収支は赤字の状況。

 今の常勤医は3人、うち1人は2013年4月に、弘前大学小児科医局を飛び出し、着任した今野友貴氏だ(文末の囲み記事参照)。地域医療振興協会には、斎藤氏をはじめ自治医科大学出身者が多い中、「まさに救世主が現れた思いだった」と斎藤氏。それ以前、小児科は週に3回、非常勤医が担当していた。他科も交代で非常勤医が来る体制であり、「町民のかかりつけ医の姿ではなく、何とかしたいと考えていた」(斎藤氏)。

 さらに東北メディカル・メガバンク機構の「循環型医師支援システム」の応援などを得て、今は常勤換算4人強で運営している。外来は震災前は1日約200人だったが、今は約100人に減った。入院患者、老健施設のほか、在宅医療、離島や仮設住宅地への巡回診療などを担っている。「震災前と比べると、まだ十分な医療を提供できているとは言えない。離島(出島、江島)は一時は全島避難だったが、『島で生活をしたい、漁業を続けたい』と島に戻った方も多い。診療所は再開していないため、それ代わる方法として、巡回診療を行い、何とか安心を与えることができればと考えている」(斎藤氏)。

 震災前も、行政と連携はしていたが、震災後は行政とより密接な連絡を取り、被災者、避難者の医療に当たった。「震災を機に、行政との垣根はなくなり、地域包括ケアシステムの下地ができた。女川町は、行政は一つ、病院も一つ。そのほか、保健福祉に関連する事業所ともコミュニケーションが取れている」。震災後、保健センターも同一敷地内に移転、「内線電話で保健センターに連絡できる気軽さ」があるという。

 がんの発見、遅れが目立つ

 震災後、医療面で生じている問題の一つが、がんの発見の遅れだという。「患者が受診するタイミングが遅くなった。また内視鏡検査ができるのは私しかおらず、がん検診の数を増やそうとすると、外来などの患者を診る時間が十分に取れなくなってしまう」(斎藤氏)。また今は禁煙外来を実施しているが、震災後しばらくの間は、家を含め何もかも流された患者から「たばこが生きがい」と言われると、禁煙なども強く勧めることができないなどのジレンマもあった。

 要するに課題は医師の確保。「まだ仮設住宅で生活している方もたくさんおり、町自体はまだまだ復興していない。これからが復興の本番であり、町づくりを進めていく。今の女川だから経験できる医療もあると思う。ぜひ全国の若い先生には今の女川を見て、できれば一緒に仕事をしてほしい。若い先生以外にも、一緒に地域をやってもらえるような先生が来てくれることを期待したい」と斎藤氏は語っている。

 女川地域医療センター小児科医・今野友貴氏に聞く

 女川地域医療センターの3人の常勤医の1人が、2013年4月に着任した小児科医、今野友貴氏だ。2003年弘前大学卒業で、同大小児科入局、初期研修、後期研修を終え、学位と小児科専門医も取得、着任前は同大病院小児科で、主に小児循環器を担当していた。

 同センター勤務を決めた理由は二つ。一つは、女川町は実父の実家があること。東日本大震災で親戚を津波で失った上、いまだ伯母は行方不明だ。今野氏自身は福島県出身だが、幼い頃は夏休みなどに祖父母の家をよく訪れていた。ただ、震災前までは、女川に勤務することは想定していなかったという。

 もう一つは、卒後約10年を経て、今後の進路を考えていたこと。弘大小児循環器の担当医は3~4人で、2、3日に1回は当直する激務だった。「仕事自体は楽しくて仕方がなかったけれど、体力的には辛くなってきていた。また将来を考えた場合、大学病院で小児循環器に専門特化するのもいいが、一般病院で予防、健診までも含めた小児医療に携わる選択肢もある。どちらも魅力的で、悩んでいた時期だった」(今野氏)。

 震災後、最初に女川を訪れたのは2011年9月。1週間夏休みを取得し、医療支援に来た。「もっと早く来たかったけれど、休みが取れず、また高齢者が多い地域で、小児科医の私にとって何ができるのかが不安だった」と今野氏は振り返る。内科は初期研修の間、約3カ月研修したのみだった。「改めてやってみると、内科は難しい。女川に定着して仕事をするのは厳しいと正直思った」(今野氏)。しかし、「震災後の女川を支援したい、またいつかは、“町のお医者さん”となりたいと思うようになっていた。“いつか”なら、今でもいいと思い、女川行きを決めた」という。

 医局を辞めたのは、いつ大学に戻るかが分からなかったからだ。大学からは引き止められたものの、最後には激励の言葉を贈られたという。

 「当初は小児科だけでいい、という条件だったけれど、今は内科も診ている。分からない症例は、斎藤先生(院長)に聞き、教えてもらう日々」と語る今野氏の表情は明るい。地元小学校と中学校の校医も務め、この4月は病児・病後児保育を始める予定であり、仕事の幅を広げている。当直は週1回で、QOLは改善した。「町が復興し、地域の人が戻ってくるまでの数年間」と最初考えていたものの、復興はやや遅れているのも事実であり、当面女川で仕事を続ける予定だ。「子供がいない町に、未来はない。医療を通じて、子供への安心・安全を確保すれば、人口流出の歯止めになり、住民が戻ってくる一助になると考えている」。



http://www.yomiuri.co.jp/life/drink/sakaba/20160229-OYT8T50134.html
福島から生まれる精神…内科医・越智小枝(3)
2016年03月02日 05時20分 読売新聞

高級ワイン持って被災地に

 福島県南相馬市原町区のダイニングバー「だいこんや」。相馬中央病院の内科医、越智小枝さんの席の後ろに、高級カリフォルニアワイン「オーパス・ワン」のボトルがたくさん並んでいた。2011年の東日本大震災後、医療支援に来た東京の医師らが、自分たちで楽しむための肉とワインを車に積み込んで持ってきた。そのワインが「オーパス・ワン」で、医師らがこの店を利用したことから、扱うようになった。

 「被災地でワインなんて不謹慎という人もいるかもしれない。でも、人を助けるときに自分も我慢しなければいけないというのはナンセンス。自分が幸せになる用意をした上で入ってくるのが本当の支援だと思う」

 とかく辛つらい立場にある人の前に出るときには、一緒に悲しい顔をしなければならないと思いがちだ。でも、それは間違いだと越智さんは言う。「よく被災者に寄り添うって言いますけど、同じ気持ちになれるわけがない。この地で長年住んできた家を失うことは、東京の人がマンションを失うのとは全然違うんです。自分にできることをやるしかない。支援には、幸せを分けるという要素もあるはずです」

死に方は選べない


 そう思うのは、研修医1年目の頃に接した白血病の患者から「人生楽しまなきゃダメよ」と言われたことが影響している。患者は間もなく亡くなった。「研修医になりたての自分が辛そうに働く姿を見るのが嫌だったんじゃないでしょうか。死ぬときに後悔しないように、ぎりぎりまで人生を楽しまなければいけないのだと、その患者さんに教えられました」

 何百人もの人を看取みとってきた。目の前の命が失われていくたびに、『あっ、まただ』という切なさがこみあげる。「臨終に向き合い、すべてのことを自分がやったと思えたことがあるかと言えば、ほとんどない。必ず後悔がある。この薬をもっと使っていれば、あるいは使わなければ、もう少し長く生きられたんじゃないかと……」

 死に際にその人の生が凝縮される。人は生きたように死んでいく。そう考える人もいるが、越智さんは、死の瞬間にひきずられてはならないという。心の中にある亡くなった患者のイメージは、死に際でなく、元気だった頃の姿。「生き方は選べても、死に方は選べない。その人の人生を代表するのは死の直前ではなく、もっと長い、それ以前の人生。だから、どんなときも人生を楽しむことを考えたい」

 越智さんがワインを持って支援に来た医師にひかれるのも、「人を助けたいという熱意と、自分が楽しみたいという熱意がすごく近いところにある人たち」だからだ。

 いざというときに医療従事者が健康でなければ、人を救えない。病院の防災対策に関心があるのも、そのせいだ。

 越智さんは相馬中央病院の内科診療科長。膠原こうげん病とリウマチの専門医でもあり、避難生活が住民にもたらす健康影響の研究にも参加している。

 仮設住宅に暮らす人々は当初、自宅に残る人たちに比べて、足の筋肉の衰えが目立った。

漁業や農業に従事する人が多く、もともと健康のために定期的に運動をする習慣がない。散歩をしましょうと言っても、散歩から戻るときに仮設を見るのが嫌だと言葉を返す人もいた。

 今も仮設に住む人たちは、定期的に集まる仲間を見つけ、健康状態も落ち着いている。復興住宅に移ったら、コミュニティーがなくなり、生活のリズムが崩れるのでは、と心配されている。「避難生活の健康影響を見つけるだけでなく、どんな政策をどのぐらいの費用で実施すれば、こんな効果が見込めるのかと提案し、実現することが公衆衛生では重要です」 

 福島の人たちとつきあってみて越智さんが感じたのは、田舎の純朴でかわいそうな被災者というイメージは、現実とかけ離れているということだ。「高齢者は明るくたくましい、そして、いい意味でしたたかです。漁師の人は特にそうですが、仕事中に命を亡くす危険と隣り合わせだったこともあってか、精神的にタフ。災害にくよくよしている感じはない。そうした強さに学びたいです」

だれをまず助けるのか

 2013年にロンドンで開かれた講演会で、越智さんの話を聞く機会があった。そのとき筆者の印象に残ったのは、越智さんが示した災害医療での「究極の選択」だった。

 目の前に重症患者がいて、処置できるのは医師1人だけ。目の前に次の人たちがいる。(1)重症感染症の医師(2)頭部を打撲した市長(3)片腕を失った子ども(4)脱水症状のお年寄り――。

 質問は「だれをまず救えば、一番多くの人が助かるか」。患者の社会的立場や、治療の種類や所要時間。倫理と論理とが絡み合う難問に正解はない。「呑のみ会で話題にしたことはありますけど、面白いくらいに答えはわかれます。文化によって考え方も違うはずです」

 限られた医療資源。それが救急と災害の医療で最も違う点だ。だれかを救うことと、だれかを救えないこととが、トレード・オフになる局面。東日本大震災では、それが現実になった。絶対的な正義などない。白か黒かではない、よりよい選択肢を選ぶのみ。そのためには感情に流されない冷徹な判断力を平時から養う必要がある。

 「災害現場では自分が正義を貫けない状況にも直面する。津波から逃げるとき、お年寄りを追い越して逃げてしまったと、今も自分を責める人がいます。でも、背負って逃げていたら津波にのまれて命を落としていた。何も悪くないと、考えなければいけない」

 放射性物質の健康被害を議論する難しさも感じている。「反原発の立場に立つ人と、そうでない人の議論はかみあわない。原子力発電や放射能がなければいいと思いますが、世界中の原発をすぐになくせるとは思えない。原発事故のあった福島で、ほかの場所で同じ事故が起きたときにも役立つ、被害を最小限に抑える方策を探ることも大切だと思います」

 科学的な根拠に基づいて議論をする土壌が必要だし、議論の前提となる知識が正しく共有されなければいけない。だが、議論は常に感情に流される危うさをはらんでいる。好き、嫌いを抜きに客観的な理屈で話し合う下地が大切だ。

 「だいこんや」には、ソフトドリンクでつくったカクテルがたくさんある。呑み会続きで酒量をセーブしているという越智さんが、ビールに代えて最後に注文した一杯はソフトドリンクの「だいこんやモヒート」。ライムとミントのすっきりとした香りが心地よい逸品だ。

 「疫学の父」ジョン・スノウや「クリミアの天使」ナイチンゲールが生きた19世紀イギリスでは、調査と統計が時代を動かす原動力となった。当初、社会を支配していたのは貧困は個人の責任とする「自助論」や、国は必要最小限のことだけをすればよいという「夜警国家論」だった。だが、『衛生報告書』(E.チャドウィック)などで、都市の人口集中に伴う住環境の悪化や、産業革命に伴う公害が、人々の健康や生活を蝕むしばむ実態が明らかにされると、問題解決を目指す社会政策が動き出す。政府は国民の最低限の生活を保障すべきとする「ナショナル・ミニマム」や「福祉国家」の思想が芽生え、時代の精神も変貌していく。

 越智さんは、震災、原発事故後の福島で多くのデータに接している。医師として診療をしながら、データを使った論文を執筆する研究者としての顔も持つ。「統計で変化を見つけたり、新たな健康被害の可能性を指摘したりするだけでは不十分で、どんな対策をとるべきかまで考えないといけない。日本の公衆衛生は感染症対策や衛生学は発達していますが、政策と経済との結びつきをもっと強めなければいけないと感じます」

 東日本大震災から5年が過ぎようとしている日本で、どんな時代の精神が形作られつつあるのだろうか。明治維新や敗戦後、外国の先例にならい、助けを借りて発展してきた日本だが、いまや少子高齢化をはじめ世界でも類のない難題を抱える「課題先進国」となった。福島はさらに、原発事故や震災復興といった困難を抱えている。

 「福島はこれまで東京から産業や文化を輸入してきましたが、それではもはや対応できない。自分たちの力で、福島に伝わる歴史や文化を見つめ直し、新しい方向を考えていかなければならない。そう多くの人が感じているようです」

 戦火と貧困、伝染病といった辛苦にまみれた19世紀イギリスから新たな政策や思想が生まれた。同じように、未曽有の災害と事故を被った福島から、新しい時代を切り開く精神が生まれてくるべきなのだ。(メディア局編集部 小坂剛)

 

https://www.m3.com/news/iryoishin/404399
シリーズ: 東日本大震災から5年
「精神的緊張は深刻」「家族の安否分からぬまま勤務」、7割が勤務中に被災◆Vol.2-1
東日本大震災:被災時についての自由記述

医師調査 2016年3月2日 (水)配信高橋直純(m3.com編集部)

Q2 2011年3月11日の東日本大震災の発災時は、どこで被災されましたか。
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 東日本大震災は2011年3月11日金曜日の午後2時46分に発災。7割超の医師が勤務先で被災した。
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■発災時の状況
【岩手】

・釜石の病院内で被災。その後、4日間電気なく、自家発電で一部の電気設備のみで勤務。10日くらいは休日なし。病棟のストレッチャーの上で寝泊まりした。食事も十分でなく、10日で3kgくらい痩せた。大変であった。公立病院にはDMATなどの応援はあったが、当院には応援なし。公立病院は病棟が損傷し、入院は廊下で対応できないものは盛岡や北上に全て搬送されていた。このことは、1週間以上経ってから知った。こんな感じです。

※詳しくは『【岩手】「民間病院にはDMAT来ず」「41人の患者引き受ける」◆Vol.2-2』を参照

【宮城】
・沿岸部の病院であったため、当日は1階病棟の患者を全て2階以上に上げて一晩を過ごした。また、近隣の津波被害に遭った住民が病院へ押しかけ、避難所代わりとなった。親族を亡くされた職員も多かったが、津波被害のため自宅を捜索に行ける者もわずかで、皆何ら家族の安否も分からないままに病院で何日も仕事をこなす状態が続いていた。むごいと感じた。

※詳しくは『【宮城】「津波襲来を知ったのは数日後」「パニック状態で来院」◆Vol.2-3』を参照

【福島】
・地震による停電、断水がありましたが、天災によるものと、あきらめて対応することはできましたが、放射線被害はどこまで拡がるのか予想ができず、もう一度水素爆発が起きたら、避難するしかないと、覚悟は決めていましたが、精神的緊張は深刻でした。

※詳しくは『【福島】「患者全員自衛隊ヘリで避難」「地獄絵図、修羅場」◆Vol.2-4』を参照

◆回答者の年齢は以下の通り。
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https://www.m3.com/news/iryoishin/404400
シリーズ: 東日本大震災から5年
【岩手】「民間病院にはDMAT来ず」「41人の患者引き受ける」◆Vol2-2
東日本大震災:被災時についての自由記述

医師調査 2016年3月2日 (水)配信高橋直純(m3.com編集部)

Q2 2011年3月11日の東日本大震災の発災時は、どこで被災されましたか。
調査結果は『「精神的緊張は深刻」「家族の安否分からぬまま勤務」、7割が勤務中に被災◆Vol.2-1』を参照。

【岩手県】
・被災時、勤務中で病院1階が津波で破壊された。

・7階にある医局にいたが、地震で揺れがひどく死ぬな、と思いました。

・発災時手術中であった。手術は本部の命令で、中途のもの以外は中止となった。その後DMAT活動を行った。

・当時は中核センター病院へ勤務。数日外来診療を中止し、被災病院への若手医師の診療応援のためのバックアップをした。

・直後は病院の見回りをして、落ち着いたため、その後テレビを見て津波の状況を確認。手術中などの状況を除き院内に大きなパニックは無かった。

・釜石の病院内で被災。その後、4日間電気なく、自家発電で一部の電気設備のみで勤務。10日くらいは休日なし病棟のストレッチャーの上で寝泊まりした。食事も十分でなく、10日で3kgくらい痩せた。大変であった。公立病院にはDMATなどの応援はあったが、当院には応援なし。公立病院は病棟が損傷し、入院は廊下で対応できないものは盛岡や北上に全て搬送されていた。このことは、1週間以上経ってから知った。こんな感じです。

・盛岡から八戸に出張していました。新幹線も止まりタクシーで盛岡まで戻ってきました(電灯もなく暗黒でした)。その後、数日間は各病院からの患者さん対応のため大学病院に詰めていました。

・被災直後は病院の救護班が出動した。電気も水道、ガスもない状態。当院は電話がつながったので救急車がものすごい数で搬入された。

・病院の業務が止まり、被災地支援の指示を待ったが、搬送者もあまりなかったため、あまりすることがなかった。

・当日:院内の患者避難誘導。患者を帰宅させた。停電発生し電子カルテダウン。水、食糧、電池等の買い出し。翌日:停電のまま開院、紙カルテで対応。20人程度来院。処方内容はお薬手帳、院外薬局の処方歴参照。停電のため水道のポンプ作動せず、さらに水を確保(トイレ用)。翌々日:停電改善。基幹病院からガーゼ、縫合糸、その他の援助依頼あり。タクシーにて配送。

・沿岸から25kmの病院で当日、41人の患者を引き受けた。

・出張で、14:40盛岡発の新幹線の中で被災。発車から7分で被災したが高架橋の上でそのまま車内で一晩過ごし、翌日10時過ぎくらいにJRが用意した迎えのバスがきて盛岡駅まで戻してもらった。その後、病院へ向かった。

・電気通じないことと、ガソリンがないこと、店に食料がない中で沿岸支援をするのが大変だった。

・避難所に数日、5日目から薬の処方のみ再開。

・当日信号機の作動していない街中を車の運転をして帰宅するのは怖かった。家は停電していたので、懐中電灯で過ごした。水が何とか出ていたので助かった。その後しばらくガソリンがなかったので、相乗り出勤をした。

・手術中止が多く、必ずしも被災の患者さんが来るわけでもなく、沿岸に応援にも行けず、といった状況。

・病院、自宅とも大きな損傷がなく、病院は約2日間停電となったため非常電源に切り替えたが、重油の補充の見通しがなく、大変苦慮した。電力以外に最も必要とされた支援物資はガソリン(灯油、重油)であったが、不自由なく調達できるまで約3週間もかかった。高速道路を不必要に制限したのが、大きな問題と思われた。首都圏感覚で支援策優先順位を決めていったのは、反省が必要と思う。

・直後から電気が途絶えた。信号も消え、警官が交通整備をしていた。家の中は戸棚から落ちたものや、ガラスの破片でゴチャゴチャだったが、片付けるには暗く、また寒かったため、車で寝泊まりした。ガソリンがなかなか入れられず、5-6時間待ちだった。幸い、水とガスは通っていたので煮炊きはできた。

・勤務中に被災しました。直後から停電となり、携帯もつながらなくなりました。子供がいるため、自宅に帰らせてもらいましたが、停電で信号も消えているため、交差点で車がなかなか進まず、普段の4倍の時間をかけて自家用車で帰りました。2日間停電で暖房もつかず、スキーウエアを来て、ろうそくで夜を過ごしました。幸いガスと水道は使えました。沿岸の実家にも津波が到達したことはインターネットで知りましたが、両親の安否が分からず、4日後に連絡が来たときは涙が出ました。

・金曜午後;停電したため、診療は電池式の機器で対応、点滴処置・処方せんや会計記入は窓際で外の明るさを利用した。患者の帰宅を優先し、投薬のみで診療・会計は後日に回した人もいた。全員後日来院。大きな被災はなかったと感じる。土曜休診。月曜日:電気が回復し再開したが、ガソリン不足で車通勤ができず自宅に留まった職員もいた。患者も少ないので交代で出勤。水曜日:物流が途絶えた中、買い置きしていたIOL等の手術材料のおかげで予定通り白内障手術が可能だった。

・当日は総合病院の上層階にいて、病棟患者の診察をしていた。かなり大きな揺れで、時間が長いと感じた。その後、約2日は不眠不休での診察に当たることとなった。その後は休みを取ったり、交替で診療に当たった。ライフラインは比較的保たれた。また、病院には、患者が大挙して押し寄せることもなく、避難所に誘導されたため、病院が避難所と化すようなことはなかった。

・訪問診療中の車の中で被災、その日は病院に戻り被害状況を確認した。翌日からは、自宅から職場まで、往復40km毎日通った。燃料の確保が大変だった。

・震災前日が当直で、震災後そのまま1週間程病院に泊まり込んだ。



https://www.m3.com/news/iryoishin/404401
シリーズ: 東日本大震災から5年
【宮城】「津波襲来を知ったのは数日後」「パニック状態で来院」◆Vol.2-3
東日本大震災:被災時についての自由記述

医師調査 2016年3月2日 (水)配信高橋直純(m3.com編集部)

Q2 2011年3月11日の東日本大震災の発災時は、どこで被災されましたか。もし良ければ被災当時およびその直後(数日~1週間以内)の状況について、ご記入ください
調査結果は『「精神的緊張は深刻」「家族の安否分からぬまま勤務」、7割が勤務中に被災◆Vol.2-1』を参照。

【宮城県】
・停電と情報通信網の寸断により沿岸部の被災状況を知ったのは翌日以降だった。搬送システムの崩壊により数日間は沿岸部からの搬送はほとんどなく、近隣の少数の外傷患者に対応した。長期の停電により在宅酸素・透析の患者が行き場をなくしたため自家発電のある当院で収容した。

・勤務先にも津波。足切断患者が運び込まれる。12日和山方面の学校校庭にヘリが来ていると聞き、ストレッチャーで運ぶ。14日月曜になってようやく自宅へ徒歩帰宅。途中胸まで水につかって歩いた。

・岩手県北に勤務。沿岸部ではなく、沿岸部の受け入れのため後方待機していた。

・診療中にすごい地震が発生。サイレンもならず津波が来たのは知りませんでした。ただ、700m先まで津波は来ていました。津波のことを知ったのは数日後でした。

・ガソリンの不安もあり、震災後1週間以上、診療所に泊まり込んだ。

・診療所、自宅とも浸水。電気が再開するまでの約3週間、避難所生活。3月13日、診療所から持ち出した聴診器と抗生剤を持って、市内の主な避難所を回った。津波に巻き込まれての肺炎と外傷の方が多数いた。ちなみに自分がいたのは子供が通っていた小学校で、正式な避難所ではないという理由で、食事の配給は1日1回、温かいものはでなかった。思い出すのもつらいことだらけ。

・同居する妻子の無事はその日のうちに確認できたが所在は分からず、私は病院に泊まった。院内は大きな被害はなく、非常電源があり、院内にいればあまり困ることはなかった。翌日マンションに戻ってみたら足の踏み場もなく物が散乱していた。電気・水道・ガス・携帯とも使えず、部屋を片付けてしばらくは日没と共に家族と寝床に入る生活が続いた。1週間以上何も復旧しなかった。日中は病院で過ごし、急患を診た。週末は食料の調達に明け暮れた。

・透析医のため自家発電装置を有する施設に夜間、自分の患者を連れて行き、夜半過ぎまで診療を続けた。その後はガソリンがなく自宅に戻れず近くの駐車所で車の中で仮眠し、翌日も同様の診療を継続した。

・診療所開業準備中に被災した。人的・物的被害はほとんど無かった。津波被害が無い地域だったのが幸いした。ガソリン不足で私もスタッフも動きが取れず、業者の作業も進捗せず、結局開業は約1カ月遅れた。この間いわば無所属だったため、開業準備と並行して公設避難所で避難者の診療や、以前勤務していた医療機関での診療支援(大学からの医師が来られない分の穴埋め)を行った。

・透析専門クリニックだが、停電は土曜日夜には復旧したが、翌週木曜日からとなった。しかし、翌週月曜日からは、水を給水車で運んでもらって、透析自体は再開した。翌々週からは、ほぼ通常通りに診療を行った。

・宮城県石巻市での開業準備中で、診療所建築途中でした。自分は岩手県内で勤務医をしていました。震災後から鉄道は不通、ガソリン不足のため自動車も使えず、現地へ入れませんでした。岩手県内で仕事を続けていました。

・沿岸部の病院であったため、当日は1階病棟の患者を全て2階以上に上げて一晩を過ごした。また、近隣の津波被害に遭った住民が病院へ押しかけ、避難所代わりとなった。親族を亡くされた職員も多かったが、津波被害のため自宅を捜索に行ける者も僅かで、皆何ら家族の安否も判らないままに病院で何日も仕事をこなす状態が続いていた。むごいと感じた。

・勤務先病院では被害が少なく、また、搬送される患者数も限られていた。診療はできなかったので沿岸部の関連病院へ支援に行った。

・被災翌日までは電気水道ガスが全て使用不能。1週間は通常診療を休診し急患対応のみとなった。休日は大学の支援システムの一端を担う形で避難所回りをしていた。

・沿岸部にあった病院は津波被害を受け3日間孤立した。5日目に避難所に移り入院患者の転院を行い、10日目に全員が転院をして休院した。

・震災後3日間は病院に泊まりきりでした。その後、帰宅して部屋の整理を行ったのを覚えています。

・とりあえず入院患者を落ち着かせ、病室に留まるよう説明。来院するであろう地震や津波で受傷した被災者のため待機。病院設備の破損、停電、断水などのため通常診療は不可能なため、救急のみ対応とする。しかし、自家発電のため電気がついている施設が病院だけだったことや近くまで津波が来たため、余震やさらに津波が来るかもしれないとおびえた近隣の方々が病院へ集まってしまう。一時講堂を開放していましたが、入院患者用のリネンを勝手に持ち出したり、食事が出ないことに対して不満を訴える人もいたため、病院は避難所ではないことを説明し、避難所情報がはっきりとし、津波が押し寄せてはこないことを確認し退去していただく。急患に関しては、初日は救急車が数回、津波に巻き込まれ低体温と脱臼等の外傷を負った人を置いて行きましたが、2日目以降はほとんど来ませんでした。それは勤務先の病院周辺の通信復旧が遅れ、衛星携帯も充電切れだったため使えず、携帯電話もつながらない状態だったため、病院への連絡・病院からの連絡ができず、救急隊から当院への連絡ができなかったからでした。一時当院も津波に巻き込まれて機能不全に陥っているのではないかと心配されたほどでした。

・震災3日目には東京方面からの支援物資が届き始め、ボランティアの整形外科医も来てくれたため一時帰宅ができました。中部電力の電力車がやって来て電気をふんだんに使用できるようになりましたが、すぐ電気は復旧しました。水道が続き、電話の復旧が最も遅れました。内科・外科の先生たちは避難所の巡回を開始しました。震災後5日目くらいからは、整形外科は特に忙しいことはなく、手術室が設備破損のため2週程使用できなかったため手術もなくのんびりと過ごしました。
・当日(金曜日)は病院泊。トリアージ等。翌日からは携帯電話等も十分連絡取れなかったので、交代制で院内待機態勢で対処しました。

・開業医で診察中だったが避難した。警察の死体検案に協力していた。

・被災当時は手術中であった。直後から停電・ガス供給も止まり、非常電源の中で手術を可及的に終了した。その夜から急患対応を3日3晩続けて行った。4日後にいったん家に帰れたものの、家の中も悲惨な状況であった。同日夜からまた急患対応を行った。

・ライフラインがストップになり診療不可能。1週間は避難所にボランティアをしていました。

・11日(金曜日)訪問診療に行く途中で信号待ちしているときに地震発生し、路上の車両内で上下左右に揺さぶられた。揺れが収まってから訪問を中止し自宅兼診療所に戻った。当日は診療できず、夜までかかって診療所兼自宅の整理、片付けを行い翌日の診療に備えた。12日(土曜日)は診療所を頼って訪れる人があろうかと考え寝不足状態のまま、電気・水道・ガスなど復旧してない状態で診療を開始。血圧を測定して大丈夫と言ってほしい人、自分の頭がおかしくなってないか確認してほしい人などパニック状態が継続している人が9人ほど来院した。13日(日曜日)は休日診療当番が以前から決まっていたのでやはり電気・水道・ガスなど普及してない状態で診療をすることにし、電話も通じない中、高熱の化膿性咽頭扁桃炎1人、インフルエンザ2人を含む5人が訪れた。14日(月曜日)からは通常診療を開始した。

・建物自体は大丈夫だったが、備品の損傷はひどかった。停電のため数日間、自家発電で対応した。

・街全体が停電していたので、非常電源のある病院に近隣住民が大挙やってきたので大混乱した。玄関でトリアージならびに避難所案内をした。断水でトイレも使えず大変だった。災害拠点病医院のため、直後からずっと院内で被災者対応を行っていた。

・大学病院で診療中に震災が発生。直後に歩いて受診できる軽症の患者さんの受診があったが、重傷の患者さんの受診はなかった。停電でテレビが見られなかったので津波の被害は音声や文字の情報だけでは最初はよく分からなかった。重症患者の発生した津波の地域は、周囲の地域との交通が遮断されて移動ができないことが分かった。週が明けると被災状況が判明し、津波地域の患者をヘリコプターで受け入れ市内の病院に振り分ける仕事が始まった.食べ物やガソリンの入手が困難となったが毎日通勤して、休日は家族で食べる食料を調達するためスーパーに並び、ガソリンを調達するのに何時間も待った。今考えると信じられないが,当時は津波地域の人のことを考えて頑張ったような気がする。

・手術中のため、酸素の残量を心配しながら麻酔した。電気は自家発電以外使えず、ガスは止まり、病院でもお湯は出なかった。水は使えた。

・当直明けで帰宅。その後、地震が発生。家は無事だが状況が全く分からず、ライフラインが絶たれ、家族を守るので精いっぱいであった。その後、避難所で救護所を開設し災害医療の陣頭指揮をすることとなった。

・診療所は内部の散乱が激しいものの、建物の被害はなし。直後に電気、水道が止まったため診療ができなくなった。自宅も同様で、建物内の後片付けをしつつライフラインの復旧を待った。電気、水道の復旧と器機の故障がないことを確認し、5日後に時間を短縮して外来を再開した。

・非常勤の立場だったが、毎日朝に出勤し、災害医療に従事した。

・自宅、診療所ともに床下浸水。車は従業員のものも含め水没。職員は帰宅できず数日間院内で一緒に生活。

・初期研修医であったため、数日間は泊まり込みで救急業務に当たった。当日は驚くほど患者が少なかったのが印象的であった。

・当時、隣県の病院に勤務していた。人的物的被害は少なかったが、停電や物流の停止により、入院や手術を制限せざるを得なかった。また宮城県からの患者搬送や、沿岸被災地への医療派遣に備えた。

・被災直後の3-4日間は病院に缶詰の状態。48時間を経過して、市内の病院や診療所の自家発電の燃料が尽きると、仙台市内で分娩、帝切可能な3カ所の周産期センターに全ての妊産婦が集中するようになった。当院もその一つで、一時的に分娩数、手術数が激増し、ガス滅菌ができないこと、ディスポ製品が底をついてかなり苦労した。市内のライフラインの復旧とともに、震災後7〜10日くらいで元の状態に徐々に戻っていった。

・薬剤供給が間に合わず、投与日数を限定していました。

・3-4日は、クリニックが使えず、近くの高校にて、診療した。薬はほとんどなく、トリアージと診察程度であった。

・当時勤務していた病院の医局にて被災。病院内では炊き出しや非常電源があったので、比較的まともな生活や食事ができた。賃貸アパートの被害も皿が割れた程度であったが、電気と水道が止まったのでしばらく不便だった。

・2-3日病院に泊まって、在宅酸素の患者等の収容を行った。その後、数日、処方の必要な患者等の対応を行った。市中では、停電・断水が続く中、病院のみは電気が点いており、食事も供給された。自宅に帰った時の方が、何もなく、悲惨だった。福島県に近く、放射能汚染が心配だった。

・当直明けで自宅にいた。近所で一人暮らしの義母の様子を見に行った後、30km離れた病院に車で向かった。大渋滞で3時間半かかった。その後は救急のトップとして災害対策の指揮を10日間にわたって担った。

・震災当日は、医師は病院内に宿泊待機でした。電気が止まり、自家発電に切り替わりました。院内電話がつながらず、救急車が直接来院する状況でした。当日は夜中にいったん自宅へ帰宅。その後は、分担して、当科では夜間は2-3にずつ待機。

・診療所は屋上まで津波が来て、全壊しました。町も消滅したようなものです。3日間は道路が寸断されて、移動できませんでした。車中泊してました。

・直後は情報も何もなく、とにかく目の前の業務でいっぱい。3日くらい経ってからだんだん情報が入るようになった。電気がなければなにもできないことがよく分かった。それとガソリンが尽きて動きが取れなくなった。

・手術中に被災。患者さんは救命できた。本院旧館は使用不能。新病棟に患者を移すなどてんてこ舞い。

・被災時は病院内でカンファレンス中でした。建物は免震構造のため大きな被害はありませんでした。外部電源は落ちましたが、自家発電が直ぐに作動し非常電源がスムーズに確保できました。直ぐにレスピレーターなどを装着した重症患者に異常がないかどうかを見回りましたが、幸い大きなトラブルはありませんでした。

・被災時は関連病院に出向していた。地震発生時は手術後間もなくでICUにいた。ベッドがずれたり、棚から物が落ちるなどしたが、大きなトラブルはなかった。三日目から緊急手術は対応できることになり、急性大動脈解離などの手術に従事した。

・当日は柴田町で献血検診に従事中で、幸い献血者、従業員には負傷者は出なかったが、近くの工場勤務者には打撲等の負傷者があり、救急処置を施した。自家用車で献血会場に行ったので、往路50分に対して復路は5時間以上かかった。被災後血液センターは業務を停止し、1カ月あまり自宅待機となった。

・たまたま車のガソリンがほとんどない状態だったので、当日、翌日は、病院に出勤できたが、以後は、バスと地下鉄が動くまで、タクシー通勤となった。病院は、ライフラインの復旧まで3日程度かかった。

・外傷は思ったほど少なく、慢性疾患に対する対応に追われた。

・勤務先病院にて被災。被災後約10日間入院患者の搬送など対応業務に泊まり込みで取り組んだ。

・翌日から診療開始、手書きカルテ、院内処方のありがたさが分かった。クリニックの前の調剤薬局(当院は少ししか使ってない)は翌日から閉店。当院は薬剤が豊富にあるので、他院に通院中で薬がなくて困っている患者を助けることができた。ライフラインの欠如は深刻だった。水、暖房、電気、食糧、ガソリン不足は大変だった。職員は徒歩で通えるものはよかったが、遠方のものは、見知らぬ人に乗せられたり助けられていた。冷蔵庫の中のものを、公園で炊き出しして近所の人たちと分け合って食べたことも思い出す。

・2-3日で病院の貯水槽もほぼなくなり、断水。燃料の関係で電気の使用ができる部署も限られた。退院し避難が可能な患者を避難誘導し、電子カルテが運用できないため紙媒体での運用を行なった。電子カルテの弊害を感じた。

・地震時は診察中。患者を帰し(それはそれで後悔)病棟に対応に当たる。4階だったため、余震が多かった数日は1階へ患者を避難させた。褥瘡悪化が数件あった。自分自身は3-4日ほど病院に泊まったが、5日目辺りから普通の生活。水道・電気は復旧していたしガスもプロパンだったからほどなく復旧。もともと保存食買いだめ派で何より単身なのであまり困らなかった。



https://www.m3.com/news/iryoishin/404407
シリーズ: 東日本大震災から5年
【福島】「患者全員自衛隊ヘリで避難」「地獄絵図、修羅場」◆Vol.2-4
東日本大震災:被災時についての自由記述

医師調査 2016年3月2日 (水)配信高橋直純(m3.com編集部)

Q2 2011年3月11日の東日本大震災の発災時は、どこで被災されましたか。もし良ければ被災当時およびその直後(数日~1週間以内)の状況について、ご記入ください。
調査結果は『「精神的緊張は深刻」「家族の安否分からぬまま勤務」、7割が勤務中に被災◆Vol.2-1』を参照。

【福島県】
・水道が数日出なかった。電気の復旧は当日夜。ガソリン給油で苦労した。
・当院の建物自体は被害少なかったが、インフラは悲惨でした。電気、水、食物そしてガソリン不足。水は、井戸のある方が善意で提供してくれました。

・当直明けで自宅に帰宅した直後に被災。マンションからかけ出て無傷だったが、建物は半壊、直後に津波が到来、津波を背後に車で職場に避難して助かりました。その後、1週間は病院内で急患、入院患者の対応に追われ、ほぼ毎日当直状態。暇を見つけ、外出するも、店舗は休店、ガソリンスタンドも閉鎖、原発のメルトダウンがあるも、避難もできず、ライフラインの復旧を病院で待つ毎日でした。

・緊急被ばく医療。

・病院が損壊の状態となり、入院患者の避難措置等に追われた。翌日、全壊とのことで、病院閉鎖となり、入院患者の他の医療機関への移送等に翻弄された。

・震災当日も被災者の診察を行い、翌朝には避難民が大挙してわが町に緊急避難してきたため、その方々の診察・処方で夜中までかかりました。自宅の修復もままならず隙間風の吹くなか診察を継続しました。原発の爆発後も町民が避難する中、残った町民の診察を継続するため町に残りました。

・地獄絵図、修羅場。

・水道が止まった。ガソリンが確保できなくなった。原発が爆発した。家族を出身地の中部地方の弟宅へ車で逃した。道路が混雑し、深夜まで逐次避難状況を連絡させ、こちらからも情報を伝えた。

・勤務先が被災し断水となり3日間診療不可。自宅も断水(5日間)し、車が被災して駐車場より取り出せなくなり1ケ月間自家用車なしで過ごし、不便な生活となった。

・仙台の病院に出張で出かけていて、帰りのJRの中で被災。一晩寒い中、ホームレスを体験しました。翌日幸いにも仙台の知り合いと連絡が付き、出張病院まで送ってもらいました。そこでたまたま福島に車で行くという方がいらして、乗せてもらって、翌日に福島に戻りました。それ以後は病院で被災後の対処となりました。

・施設は免震構造のため無事だったが、ライフラインが寸断されていた。近隣から救急患者が集中することになり、さらに原発周辺からの避難患者(線量測定希望を含)も来院した。

・病院の10階の病棟カンファレンス室で学生教育の最中に地震が起こった。院内のエレベーターが止まり、患者の移送が大変であった。その後、電気、ガスは大丈夫であったが、断水が1週間続いた。15日に福島市にも放射線物質が到達し、汚染に対する対応で苦労した。

・水道管が壊れ、自衛隊がいないと水の確保が困難であった。また、ガソリンも安定供給されず、困った。

・建物の被害は軽度(ひび、外壁タイルの剥離)。棚の中のものが飛び出した。人的被害なし。直後より、融雪用の水量が2分の1に。一番困ったのはガソリン。往診・在宅へ行けなくなり、特別のガソリン割り当てが来たのはずいぶん経ってからです。普段使っている乗用車からガソリンを抜き、軽自動車で往診・在宅を施行。薬等は備蓄もあり、困るようなことはあまりなかったです。しばらくたってからは、避難してきた浜通りの方の避難所へ医師会として出向き、診療。この時は、薬のやりくりが大変だったようです(医師は処方箋を書くだけで、実際薬が十分あるのか否かは?)。

・被災後、診療を継続していましたが、断水に加え、原発の水素爆発が起きてしまい、診療困難に陥り、家族とともに県内に避難しました。

・医薬品、医療食の供給が少なくなり、入院患者さんへ十分に投与できなくなった。スタッフ数も少なくなってギリギリでした。

・地震による停電、断水がありましたが、天災によるものと、あきらめて対応することはできましたが、放射線被害はどこまで拡がるのか予想ができず、もう一度水素爆発が起きたら、避難するしかないと、覚悟は決めていましたが、精神的緊張は深刻でした。

・自宅で被災し、直後に病院に駆けつけ、入院患者全てを一度近くの中学校の体育館に避難させ、一晩いて、また病院に戻した。その後は毎日自宅のリビングでソファーの脇に寝て、すぐに病院に駆けつけられるようにしたり、病院に泊まっていた。水も食料も不足し、シャワーも浴びられずに1週間を過ごした。

・原発から直線で約30kmのところで開業しています。家族は隣の県での避難生活となりましたが、自分は医院で休日(3月13日)も診療をして、その週も午前中は開けていました。近隣の医院が閉めていたので開けることにしました。

・停電によりTVが見られず、原発のことは知らなかった。当時、一番下の子が授乳期だったが、ミルクやおむつが手に入らず奔走していた。保育園が休園になったため、実家に子供を預けて病院にこもることにしたが、実家は自宅より原発に近いところにあったため、今後の影響が危惧される。

・ホール天井が落ちるなど、大きな被害を受けてしまった。当日出勤の職員を中心に、休暇中の職員も総出で患者様を避難させることに尽力した。

・ライフラインは保たれていたが、光電話を使用していたためネット回線が復旧するまで不自由した。原発からは45kmほど離れており、プルームの影響も少ない地域だった。3号機が爆発した3月14日に10数人に処方したのが最後。自家用車で医薬品の卸業者の所まで2km医薬品を仕入れに行った。被災した支店長が支店で寝起きしていたので半透明の衣装ケース1個分の医薬品を仕入れたおかげで、後から補充されるまで何とか間に合った。自宅兼診療所には被災した親戚など最大で16人が寝食を共にした。

・第一原発から9kmの病院で仕事中でした。震災/原発事故のため,3月14日まで同病院で仕事をし、患者さん全員自衛隊ヘリで避難させた後,3月14日夜、病院をあとにしました。現在も避難中。

・金曜日午後は往診日で有ったため、患者宅玄関に入ろうとした際に震度4程度の地震を体感したが、特に人的被害や往診車・クリニックの建物の被害は無かった。しかしその後1週間ほどは通勤や往診、訪問看護の車両のガソリンの確保に困難を来した。

・地震により院内に物が散乱し、片づけるのに2-3日かかった。片づく目処が立った時点で原発事故が起きて、周囲の町村から住民が避難し、人がほとんどいなくなったのを覚えている。診療所は終ったなと思った。

・自宅は停電、断水状態となり、コンビニやスーパーの食料や日常品が品切れとなり、確保するのに大変でした。翌日には電気が使えるようになりましたが、水は約1週間は使えず、トイレが最も大変でした。井戸水のあるご近所の方に水を分けてもらったり、水道局で配給された水をもらって何とかしのぎました。病院は一部井戸水使用しており、その建物のみトイレ使用できました。病院は震災当初から電気は問題なく、在宅酸素や呼吸器を使っている方は停電が回復するまで入院してもらいました。病院食は缶詰などで食事らしい食事ではなく、食料確保も困難であったため、何とか自宅療養できる方は退院してもらいました。

・デューティーを済ませ、当日夕刻仙台で開催予定の学術講演会に、常磐線利用で向かうつもりだった。医局で休憩中に地震、揺れかたは実は怖くなかったが、揺れの時間がとても長く感じられた。棚のものが多く飛び出し床に飛散するに及んで、ようやく、これで仙台には行けないと感じていた。

・震災直後、院内配管系統・一部設備の損傷が見られたが、職員に死傷者はなく短期間での通常業務再開が可能だと思っていた。

・津波被災から救助された患者が救急で運ばれていたが、原発事故以降、医薬品・物品の外部からの供給が急速に滞りはじめ、一方で原発近くからの患者からの処方(代行を含む)の求めは殺到した。さらに国からの30km圏内での入院患者収容の中止・外部への移送から、休診命令へと、1日ごとに情勢は大きく動いた。

・最終的には道路網の随所での寸断などから、避難・脱出の時期も図りかねる状態だったが、入院患者の転院終了をもって院長(当時)が残った職員に向け解散を宣言、自分も事務長(当時)の強い勧めで現地を離れ、県外での避難・待機となった。

・震災当日、壊れた病棟から、患者救出のため、おんぶまたはシーツを担架代わりにして屋外非常階段で人力搬送しました。その後、約1週間は、病院の水とおにぎりの炊き出しで食事をしながら、可能な限りの診療を続けました。

・当時、大学病院勤務でしたが、東京に2-3泊の予定で出張していました。震災後、交通機関が麻痺したのと、病院での手術が中止になって待機状態とのことから、しばらく都内に残ることとなり、1週間後くらいに帰りました。

・福島第一原発より直線距離約30kmの浪江町津島地区の診療所勤務。ライフラインが保たれていたため、3月12日から全町民避難までの3月15日まで避難民の診療。避難後3月19日より避難先で仮設診療所を立ち上げ、引き続き避難民の診療に従事。3回の移動しながら現在まで避難民の診療継続中。

・大腿骨頸部骨折に対する人工骨頭置換術の手術真っ最中でした。停電はほんの一瞬のみ。自家発電にすぐ切り替わり手術続行→終了。電気は当日中に復旧しましたが、一週間程続いた断水に悩まされました。

・原発から50kmであったので、県外に逃げるために慢性疾患の患者が薬をもらいに来たことと、近所の開業医が逃げたのでその患者が押し寄せました。

・地震そのものによる建物被害はなかったが、停電で電子カルテが使えず、翌日は診療できなかった。断水は1週間くらい続いた。ガソリン不足でスタッフが出勤できず、往診にも難渋した。

・全身麻酔の手術中。停電になり非常用電源が不安定な中手術を続行。数日間は食事が1日1食おにぎり2個程度で働いていた。原発の爆発時は屋外にいて50km離れていたが爆発音が聞こえた。

・ビルの5階のクリニックで被災。患者、事務員、看護師とともに表へ避難。3時半ころに解散とし、そのまま帰宅。道路の交通信号は全て消え、大きな交差点では何カ所かは警官が交通整理。自宅は姿見が倒れ、金魚鉢の水があふれ、ビン類が壊れた程度。停電あり。その夜、ラジオで0時から断水の案内あり、急いで水を汲み置き。電気は3日後に回復、水道は約1週間。病院は自家発電と井戸水で何とか自立。2日間は新しい免震棟へ患者を集め廊下、広間で過ごす。食事は非常食。薬剤は納入が途絶え、処方制限。約1週間はまるで正月のように街は人がいず静か。ガソリンが欠乏し、遠方の職員は泊まり込み。薬とガソリン欠乏が酷かった。食料はあり合わせで何とかなった。

・情報がない。病院幹部は組織の継続を図ることにのみ専念。従業員を避難させることなど毛頭ない。県、市からの情報も伝えず。住民が消えた状況の中で、水道もない状況下で、ひたすら金儲けを指示された。

・コンビニエンスストアやスーパーで物がなくなった。車社会なのにガソリンが足りなくなった。
・ 当日は夕方まで診療した。門前薬局が本社の指示で二日間休業というので、休診とした。その後は通常の診療をした。

・原発事故が起きて5日後、未成年だった娘二人を連れ九州の親戚の家に3週間ほど避難していた。

・翌日は休んだが月曜からなんとか開院。内科小児科だが、小児科の患者はほとんど来ない(ガソリンがないためと思う)。



https://www.m3.com/news/general/404340?dcf_doctor=true&portalId=mailmag&mmp=MD160302&dcf_doctor=true&mc.l=146724735&eml=3f492a08f1681d66441569ec02c0b51e
アトピー、震災で増加 宮城の子ども健康調査
2016年3月2日 (水)配信共同通信社

 東北大は1日、東日本大震災の津波を経験した子はそうでない子に比べ、アトピー性皮膚炎の症状を示す割合が1・23倍になるなど、子どもの健康面に震災のストレスの影響が出ているとみられるとの分析結果を発表した。2012~15年度に実施した調査結果をまとめた。一方、年数がたつにつれ、症状を示す割合が低下する傾向もあるとしている。

 東北大は、宮城県内の小中学生の保護者に協力を依頼し、約1万7千人分の有効回答を得た。

 4年間全体の結果を見ると、仮設住宅に移るなど住まいを変えた子でアトピー性皮膚炎の症状を示す割合は、同じ家に住み続けている子に比べ1・15倍だった。

 年度別の分析では、13年度は、津波を経験した子で症状がある割合は、経験していない子の1・36倍だったのに対し、15年度は1・16倍になるなど、両者の差が縮まっている。

 調査した菊谷昌浩(きくや・まさひろ)准教授(疫学)は「皮膚の症状は精神面とも深く結びついている。調査結果を今後の災害での支援に役立てたい」と話した。

 東北大によると、調査の途中段階の分析でも、津波を経験した子で症状を示す割合が高くなる傾向が出ていた。


  1. 2016/03/03(木) 05:29:06|
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