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2月29日 3.11震災関連

https://www.m3.com/news/iryoishin/402084
シリーズ: 東日本大震災から5年
「南三陸病院」、2015年12月に開設【宮城編◆Vol.1】
医療、保健福祉の拠点として新たにスタート

2016年3月1日 (火)配信 橋本佳子(m3.com編集長)

 宮城県の沿岸部にある南三陸町。その町の唯一の病院だった公立志津川病院は津波の被害で全壊した。仮設の診療所や病院で診療を続けてきたものの、2015年12月、「南三陸病院」として開院。「総合ケアセンター南三陸」を併設した同病院は、医療、介護、保健福祉の総合的な拠点として新たなスタートを切った(『最も大変だったのは「震災から1週間」【宮城編◆Vol.2】』を参照)。

 「町の復興はまだ遅く1、2割程度にとどまり、地域医療の復興も7、8割程度だが、私のモチベーションは震災前と比べて数倍高い」

 宮城県南三陸町にある南三陸病院副院長の西澤匡史氏に、東日本大震災前と比較した復興の状況を訪ねると、こんな答えが返ってきた。南三陸病院の震災当時の名前は、公立志津川病院。海岸から約400mの場所にあった同病院は、5階建ての5階の床まで津波で浸水して全壊。入院患者109人のうち74人が死亡、職員も3人が亡くなり、屋上に避難した職員や患者が救出を待つ映像は何度もテレビや新聞で報道された。総合体育館「ベイサイドアリーナ」を中心に、南三陸町内に複数設けられた避難所には、全国から多くの医療者が医療支援に訪れた(『南三陸町、医療再生への一歩踏み出す』を参照)。

 その志津川病院が2015年12月14日、旧跡地から高台に新築移転し、オープンした。南三陸町の保健福祉、介護の拠点となる「総合ケアセンター南三陸」と一体化した南三陸病院は、「町民のための町立病院」として、医療に限らず、介護、保健福祉まで幅広く有機的に活動できる拠点となった。


 南三陸町の医療に長年携わってきた西澤氏にとっては、まさに「ピンチはチャンス」だという。「震災前にやりたくてもできなかったことが、新病院のオープンで可能になった。健康管理に積極的に関わり、健診にも積極的に取り組んで早期発見、早期治療につなげるほか、在宅で生活する高齢者を支えることが、地域でかかりつけ機能を果たす病院の役割だと考えている。ハード面は完成したので、今後はいかにソフト面を充実していくかにかかっている」(西澤氏)。


 「町民のための病院」目指す
 南三陸町の震災前の人口は、約1万7600人。震災による死者・行方不明者は1000人を超える。被災世帯は7割強に上り、ピーク時には1万人以上が避難した。町役場や防災対策庁舎なども被災。南三陸町自体の復興に時間がかかっているのは、公共機能がほぼ全て失われた上、津波の危険を避けるため、町づくりのためにはまず山の造成や平地の土地のかさ上げが必要なことが理由だ。「町自体の復興は、災害復興住宅が整備される2、3年後までかかるのではないか」と西澤氏は見る。

 震災前、南三陸町にあった医療施設は、志津川病院(一般病床76床、医療療養病床50床)と診療所6施設。診療所のうち、再開したのは2カ所にとどまる。

 復興のシンボル的存在であり、地域住民の生活を支える拠点としてオープンしたのが南三陸病院と総合ケアセンター南三陸だ。公立志津川病院は津波で全壊した後、2011年4月18日に仮設診療所、同6月1日には、約35km離れた登米市の医療機関の建物を借り受け、38床(一般病床26床、医療療養病棟12床)の病床を再開した。以降、2カ所で運営していた(『約35km離れた「病診」を医師が行き来』を参照)。

 南三陸病院の基本計画は2013年1月に策定。3階建てで、震災前の126床から90床に減床。一般病床40床、医療療養病床50床という体制だ。診療科は、内科、外科など10科。現在稼働しているのは50~60床にとどまるが、震災後、他院に勤めていた志津川病院の元看護師らが戻ってくる今年4月以降に本格稼働する予定だ。外来は1日200人強で、震災前よりも増加、救急車の搬送も1日数件あり、年間約1000件に上る見通しだ。

 南三陸病院の特徴は、予防や健診まで幅広く担う体制にしたこと、また車で40~50分ほどの場所にある、地域の急性期医療の拠点である石巻赤十字病院との機能分担を明確にし、南三陸病院は「町民のかかりつけ機能」を担う役割を強化したこと、「総合ケアセンター南三陸」との連携で地域住民の生活を支える多様なサービスを提供できるようになったことだ。南三陸町では、町民は減少傾向にあるが、復興に従事する関連業者からの健診の依頼もある。

 石巻赤十字病院とは震災前から連携していたものの、「日赤から急性期が過ぎた患者を紹介されても、受け入れに時間がかかるなど、必ずしもスムーズとは言えない面があった」(西澤氏)。震災後は両病院とも体制がひっ迫している中、おのずから連携が密になっており、新病院ではタイムラグなく患者を受け入れることで、震災後、フル稼働を続ける石巻赤十字病院の負担軽減を目指す。化学療法室も備え、抗がん剤のレジメンの確定は石巻赤十字病院で、2クール目以降は南三陸病院という体制を想定。現在は他の地域に透析通院している患者が20人以上いるため、透析室(20床)も作った。


 震災を経験した病院として、防災対策面も強化。新病院の場所は、津波の被害に遭った旧病院からは車で10分ほど上がった高台。免震構造で、外来フロアや、業務用搬送入口前の駐車場は、トリアージ場所として活用できるよう広いスペースを確保。エネルギーも、電気やガスだけでなく、太陽光やバイオマスを活用。外来には、「ペレット」と呼ぶ木材を原料とした燃料エネルギーを使ったスト―プを置いている。「医局」はオープンな空間になっており、看護師、事務職員の部屋と一体化しているのも特徴。震災への対応から、日ごろからの職種を超えたコミュニケーションの重要性を実感したからだ。

 土地は町の所有地。病院の建設費は約56億円、うち約22億円は台湾赤十字社の寄付だ。「病院の場合、元の場所から新築移転する際には、公的補助に制限があった。そのため当時の民主党政権下の幹部が、日本赤十字社と相談し、台湾赤十字社からの寄付を得ることができた」(西澤氏)。

 もっとも、課題もある。一つは、経営上の問題。南三陸町の一般会計からの繰り入れがなければ経営は成り立たない状況にある。

 職員の確保の問題もある。震災前の常勤医は4人。現在も南三陸病院の職員としての常勤医は、内科医2人、外科1人、歯科1人の計4人。東北メディカル・メガバンク機構からローテーションで常時医師が3人派遣されているため、合計で7人の体制。この4月から整形外科には常勤医が着任する予定。ただ、小児科などは非常勤医で対応している上、「既に透析導入している患者の利便性を考えれば、南三陸病院での透析実施は必要。しかし、透析専門医がいるわけではないので、今後の対応は検討課題」(西澤氏)。看護師や理学療法士なども不足しており、採用が急務だ。

 「南三陸町は、コンパクトで、医療と行政が協力し合い、地域医療に取り組むことができる理想のフィールド。環境適応能力と柔軟性が高い先生方に、ぜひ来ていただきたい」と西澤氏は呼びかける。



https://www.m3.com/news/iryoishin/402085
シリーズ: 東日本大震災から5年
最も大変だったのは「震災から1週間」【宮城編◆Vol.2】
南三陸町の医療に今後も従事 - 西澤匡史・南三陸病院副院長に聞く

2016年3月1日 (火)配信橋本佳子(m3.com編集長)

 2015年12月、震災で全壊した公立志津川病院は、「南三陸病院」として生まれ変わった(『「南三陸病院」、2015年12月に開設【宮城編◆Vol.1】』を参照)。震災直後は、医師1人という状況で、多数の被災者を抱える避難所で医療救護活動を行い、仮設の病院と診療所での勤務を続けてきたのが、南三陸病院副院長の西澤匡史氏。西澤氏にこの5年間を改めて振り返ってもらった(2016年2月7日にインタビュー)。

――この5年間を振り返り、最も大変だったのはいつでしょうか。

 やはり震災直後の最初の1週間です。震災発生時、私は当直明けだったので、自宅にいました。停電のためテレビは映らず、携帯もつながらない中、ラジオだけが頼りでした。病院の被害のニュースは流れず、実兄からのメールで知ったのは、震災翌日の3月12日の朝のこと。兄は早くに前にメールを送ってくれたものの、届くのに時間がかかったようです。

 町の状況が全く分からず、とりあえず自宅の近くの総合体育館「ベイサイドアリーナ」に行ったところ、多数の被災者がいることに驚き、急きょ救護所作りを始めたのです。結局、その日は昼食も取らず、午後10時までアリーナで医療救護活動をしました。ただ、家族には、「ちょっと様子を見てくる」と言って出てきただけで、小さい子供もいるため、家族も心配だったので、後髪をひかれる思いでしたが、いったん自宅に帰りました。

 同時にその時、二つのことを考えました。一つは、この救護活動は長期戦になると予想し、「オンとオフをはっきりさせることが大切」ということ。もう一つは、「ピンチはチャンス」だということ。今まで以上により良い、新しいシステムを作るいいチャンスだと思ったのです。結局、震災から2カ月間は、土日曜日も休みなく救護活動に携わる日々で、目の前の被災者、患者さんたちへの対応に加え、全国から医療支援のために駆け付けてくださった多数の医療者のコーディネートを行うことになり、「長期戦」との予想は当たりましたが、想定外の災害に直面した中で、冷静に先を考える自分がいたのだと思います。

 南三陸町に隣接する登米市の病院に勤務する先輩医師が、支援に来てくださったのが数日後。医療支援チームが最初に入ったのは、震災から約1週間後。それまでの間は、避難者の中にいた看護師や保健師が、ノロウイルスのアウトブレークを防ぐための対策を講じたり、介護を必要とする高齢者の洗い出しをするなどの役割を果たしてくれました。

――災害医療の経験はなかったとのことですが、どのように医療救護活動を展開されたのでしょうか。

 災害医療は、既存のシステムが崩壊した中で一から取り組むこと。地域で何が困っているかを見いだし、それに対応するシステムを構築していく点では地域医療のアプローチと同じだと考えました。私は、2003年4月から、公立志津川病院に勤務しており、行政や消防、保健所の職員と顔が見える関係だったことも幸いしました。地域医療で果たしてきたコーディネーターの役割は、災害医療でも必要とされる存在だからです。

 私の経験から、災害医療のコーディネーターには二つの能力が求められると思います。一つは、震災関連死をいかに防ぐかなど、目の前の問題に対応する能力。もう一つは、先を見通して行動する能力、特に平時の医療体制にいかに早く戻すかを考える能力です。もともと南三陸町は、医療資源が不足している地域。多くの医療支援チームが入り、「医療が過剰な状態」「夢のような状態」に慣れてしまうと、住民に甘えが出てしまい、元に戻れなくなってしまうことを懸念したのです。震災から1カ月後の4月中旬には、「元に早く戻す」方針を打ち出し、段階的に避難所等に設置していた救護所を閉鎖し、集約化を進め、最終的にベイサイドアリーナにある仮設診療所のみにし、2011年5月中旬までには基本的には医療支援チームは引き揚げました。

 「早く戻した方がいい」と考えたのは、被災者の動きを見て、気付いたこと。ボランティアの方が多数来て、食事の準備からトイレ掃除まで全てやってくれるようになり、被災者はやらなくなってしまった。けれども、配食が始まると、わっと集まってくるのです。そこで我々医療者が自立する姿を見てもらうことで、各自が自立の必要性に気付いてくれるようになることを期待しました。

 もっとも、やみくもに元に戻したわけではありません。医療が安定しているかどうかを見る「3つの条件」を考えました。第一は、急性期と慢性期の疾患の患者割合が、震災前と同じになること。第二は、薬などの「モノ」の供給が、安定的になること。第三は、患者さんの通院手段を確保できるかです。多くの町民は家も車も、津波で流されてしまった。患者さんが仮設診療所まで通院する「足」が必要であり、町にかけあい、巡回バスを運行してもらうことで対応しました。

――昨年末までは、南三陸町の診療所と、栗原市の病院の2カ所で運営していました。

 栗原市に病床を持ったのは、2011年6月のことです。仮設診療所のみでは全てに対応するのは当然ながら難しく、また周辺地域の病院も、ギリギリの状態で運営しており、その負担を軽減する必要がありました。ただし、土地などの問題で南三陸町に作ることができず、栗原市の医療機関を借りました。

 病院だけでなく、仮設診療所にも夜間や休日の日当直を置いていたため、私の日当直の回数は月10回くらいに上りました。2015年12月の新病院のオープンで1カ所に集約化できたので、月4回くらいに負担は減りました。

――新病院では、「かかりつけ機能」を強化する方針です。

 予防や健診などの面だけでなく、高齢患者の増加を踏まえ、退院後に多様な選択肢を提供できる体制にしたいと考えています。高齢者への対応は、医療だけでは限界があります。特別養護老人ホームの嘱託医も、南三陸病院で担当することになりました。在宅や施設の高齢者の健康管理にも取り組み、状態が悪化すれば、早めに病院で対応する。従来は、施設と病院との壁があり、病院への紹介が遅れることもありました。病院と施設、在宅と患者さんがうまく循環できるような仕組みを作りたいと考えています。

 南三陸町はコンパクトな町(編集部注:現在の人口は約1万4000人)。コンパクトであるが故に、行政と一体となって取り組むにはちょうどいいサイズであり、さまざまな面まで目が行き届きます。理想とする地域医療を実践できるフィールドとして最適な環境が整ったと思います。

――先生ご自身の今後のキャリアについて、どうお考えですか。

 私は自治医科大学の卒業です。2003年4月に志津川病院に赴任しました。自治医大の義務年限があと3年だったので、それが終われば、大学に戻る予定でした。しかし、志津川病院の前院長時代に、「残ってくれないか」と言われました。地域医療に携わる将来設計はあったものの、もう少し勉強してからと考えていましたが、やはり「研究よりも臨床」という思いから、ここに残っていました。

 数年前に南三陸町に家を建てる決心をし、完成したのが、震災の1カ月半前。家を建てることで、地域のさまざまな行事にも参加するようになり、「本物の町民」になれたと思っています。それまでは「先生は、いつかは南三陸を離れてしまう」と不安に思っていた患者さんもいたようですが、家を建ててからは、「いつまでも、自分の主治医でいてくれる」と思ってくださっているようです。今はインターネットもあり、地方にいてもいろいろな情報が入りますから、医学情報のキャッチアップには問題ありません。

 震災後、自治医大循環器内科教授の苅尾七臣先生と、被災者の高血圧管理についての研究も進めています。先生は阪神大震災の時に、淡路島北淡町の国保診療所に赴任されていました。私が今、置かれている立場にあったのです。D–CAP(Disaster Cardiovascular Prevention;災害時循環器リスク予防)システムの運用を2011年5月から開始し、定期的に血圧を測定、サーバーにデータ送信、血圧管理に取り組んでいます。参加者は約340人で、ここまで継続的にフォローしている研究は少ないでしょう。既に興味深いデータが出ており、今、論文にまとめているところです。血圧には通常、季節変動がありますが、震災初年度は変動がありませんでした。震災のストレスが、環境の変化によるストレスを凌駕したと考えられます。しかし、2年目以降には、季節変動が見られるようになりました。D–CAPの取り組みにより、心筋梗塞や脳卒中などの発症予防につながることを期待しています。

 東日本大震災の被災者にとっては、家族や家を失った悲しみは消えません。「心の復興」には時間がかかります。しかし、「震災により、良くなったものもある」と徐々に思ってもらえるようにすることが、私たち医療者の役割だと考えています。



https://the-liberty.com/article.php?item_id=10963
震災から5年 現地ルポ - 福島で怖いのは放射線ではなく糖尿病
2016.02.28 The Liberty Web

3・11から5年。復興が遅れている福島では、約10万人が今も避難生活を続けている。 何が復興の妨げになっているのか。
福島第一原発から約20キロメートルの距離にある南相馬市を訪れた。
(編集部 河本晴恵)


坪倉正治(つぼくら・まさはる)
医師。東京大学医科学研究所特任研究員。南相馬市立総合病院などで非常勤医として勤め、放射線の知識に関して地域で講演を続けている。

内部被ばくを測定する大人用の検査機器。

乳幼児用の検査機器「ベビースキャン」。「実際には、大人が被ばくしていないのに子供が被ばくしている、という状況は考えられません」(坪倉医師)
「理屈では大丈夫と知っていても、不安が拭えない方も多い。『普通に生活して、お子さんを被ばくさせることはありませんよ』と説明しています」
 南相馬市立総合病院に勤務する坪倉正治医師は東京大学の研究所に所属する。そのかたわら、2011年4月から毎週、東京から南相馬に通う。市内やその周辺の複数の病院で、食べ物から受ける内部被ばく量の検査を続けている。同病院では、これまで6万件の検査を行ってきた。
「放射線量で高い値が出るのは、『裏山のキノコ』など露地のものを採って食べた方がほとんどです。とはいえ健康に害が出るレベルではなく、自然に体外に排出されます」(坪倉医師)
 同病院は、乳幼児を検査できる「ベビースキャン」も導入している。これまで約2千人の乳幼児を検査してきたが、問題があったケースは1件もない。
 また、南相馬市の水道水から放射性物質は検出されておらず、流通する福島県産の農産物の放射線量も全て基準値内だ。
 それでも同市では、「子供に水道水は飲ませない」「福島産のものは食べさせない」と決めている保護者も少なくないという。
 取材を通して、「福島は安全」ということを示す科学的なデータがあっても、多くの人々が見えない放射線への恐怖心にとらわれている実態が分かってきた。

(以降、有料記事)


  1. 2016/03/01(火) 09:56:21|
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