Doctor G 3 のメディカル・ポプリ

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2月28日 3.11震災関連

https://www.m3.com/news/iryoishin/403081?dcf_doctor=true&portalId=mailmag&mmp=MD160228&dcf_doctor=true&mc.l=146245431
シリーズ: 東日本大震災から5年
被災3県、「勤務先が全壊・半壊」が8%◆Vol.1
宮城は「全壊・半壊」が他県の2倍

医師調査 2016年2月28日 (日)配信高橋直純(m3.com編集部)

 2011年の東日本大震災から5年。震災前から医師不足や人口高齢化の進展が問題となっていた被災地の医療現場では、いまだ多くの問題を抱えている。m3.com編集部では岩手、宮城、福島の被災3県に在住、在勤の医師を対象に、2016年1月26日から2月23日までの間、震災時の状況や復興の現状を尋ねる調査を行った。回答総数は392人(岩手県78人、宮城県183人、福島県131人)。その結果を紹介する。

Q1 ご自宅または勤務先は、震災でどのような被害がありましたか。【複数選択】

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 まずは2011年の震災時の被災状況を複数選択で尋ねたところ、3県全体では「自宅が全壊・半壊」が6%、「勤務先が全壊・半壊」が8%だった。ライフラインについては、自宅で79%、勤務先で57%が「ストップ」していた。 県別の状況を見ると、宮城県で「自宅」「勤務先」が全半壊したという回答が、岩手県と福島県の2倍に達するなど、被害が甚大だったことが分かる。
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 具体的な被害の状況については『「家族に会えたのは10日後」「漏水で200万円持ち出し」◆Vol.2』で紹介する。
◆回答者の性別は以下の通り。次回以降で年齢、勤務先、診療科を紹介する。
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https://www.m3.com/news/iryoishin/403089
シリーズ: 東日本大震災から5年
「家族に会えたのは10日後」「漏水で200万円持ち出し」◆Vol.2
東日本大震災:被災状況に関する自由記述

医師調査 2016年2月28日 (日)配信 高橋直純(m3.com編集部)

Q ご自宅または勤務先は、震災でどのような被害がありましたか。もし良ければ、被災状況について具体的にご記入ください。

【岩手県】
・自宅では水道、ガスは数日で復旧しましたが、電気の復旧は1週間かかり、暖房がない日々が続きました。食器は半分くらい割れ、壁にはひびが入りました。地震保険のおかげで後に保証金も出ました。

・自宅、勤務先ともに建物にひびが入る程度の被災。ただ、停電2日間、食品は不足気味であった。勤務先は自家発電で何とか乗り切ったが、薬品・診療材料不足から外来はERを優先し、通常の外来診療を1週間(?)中止。稼働できる手術室も2、3カ所に制限し、必要最小限の手術とした(3、4週)。重油などの燃料の供給が綱渡り状態で、病院機能は著しく制限された。

・ライフラインは4、5日ストップ。ガソリンは入手困難。病院に缶詰で仕事。自宅は盛岡で単身赴任だったため それぞれの状況を知ったのは5日目以降、再会したのは10日目以降。病院は、2010年の8月に耐震補強ずみであったので壁の一部が崩れたのと、屋上にある水タンクに小さな亀裂、エレベーター一基がストップしたのみ。

・停電が数日あり、本災の時は大丈夫だったが、4月7日の最大の余震後、水が一時的に止まり、大変だった。家の中の食器や本、CDはめちゃくちゃだった。本災と余震で同様にめちゃくちゃになるダブルパンチだった。

・スプリンクラーの誤作動で、病棟が水浸しになりましたが、臨機応変のスタッフの対応により大過なく、被災を乗り越えることができました。

・病院は内外壁が一部損壊したが、発電装置など支障がなく、当座は最低限の対応はできた。電力がないと、ただのコンクリートの箱となる。厳冬期でなかったのが幸いした。自宅は高気密高断熱住宅だったので、暖房がなくても室温15度前後はキープしたので、数日最低限度で過ごせた。通常の住宅では0度から10度まで下がり避難が必要と思った。

・隣の母宅に避難。薪ストーブで食事を作り、豆炭炬燵で暖を取り、余震に備えて普段着のまま、皆で炬燵に足を突っ込んで寝ていました。TV映像が見られないので、ラジオから壊滅という言葉を聞いても、状況を想像できずにのんびりと過ごしていた。

・自宅は電気、ガス、水道は全ストップ。数日で回復した。自宅の数件隣まで津波が来た。地震による被害は皆無。食器棚なども何事もなかった。病院は高台にあり無傷であった。ライフラインは一時的にストップしたが、数日で復旧した。建物に損壊はなかった。

【宮城県】
・建造物の被害は軽微だったがライフラインの復旧には時間がかかった。電気は1週間、水道は3週間、ガスはずいぶん長く。ガソリン不足や交通網の寸断により物資が入手できず食事や薬の提供は綱渡りだった。

・停電のためパソコン使用不可、診療所自体もめちゃくちゃで大変でした。

・自宅の賃貸マンションは大規模半壊。家の中は家具、家電全てが破壊されつくしていました。もちろんライフラインは全てストップ。職場もライフラインがストップ、診療はしたものの薬も2日分しか処方できず、実際は開けているのがやっとでした。

・建物の被害は軽微だが、電気が3日、ガスが1カ月弱止まった。水道は、診療所は止まらなかったが、自宅は20日近く止まった。

・ライフラインの完全喪失で 病院の機能は全く果たせず。また、悲惨な状況を把握してもらえる手段もなく。茫然自失で毎日の入院患者の管理に追われていた。震災関連入院死も多数経験した。

・仙台市内の自宅マンションは半壊、借りていたマンションはライフラインは全てストップ。トイレ、エレベーターは使えず。勤務先のライフラインも止まっていたが、給水車による給水や自家発電、患者さんの農家からの食料の提供があって入院患者さんの治療や急患の対応は何とかできていたが、手術はできなかったようだ。2週間経っても電話は復旧しなかった。

・建て替えたばかりの病棟はごく軽微な破損で済んだが、まだ建て替え前であった医局等が入る建屋は一部大破した。水道は地下水からのものがあり、使えた。ガスは使えなかったが、電気は非常用発電機で最低限を確保した。その間、発電用重油の供給を各方面に依頼した。当地は県内で1番最後に電気が復旧した。エレベーターが使えないため、食事前には人的リレーで上層階まで患者の給食を運んだ。給食のおかずは缶詰など保存食が主だった。温かいのはご飯だけであった。また町外からの職員が多いため、通勤困難者が多かった。まずガソリンが手に入らないため、職員間の自動車乗り合いや自衛隊の仙台-病院間運送提供に頼った。自衛隊トラックの荷台は思った以上に寒かったようだ。自宅は家具が倒れた程度で済んだ。電気が1週間以内で供給されたが、ガスが1カ月間ストップしていた。風呂、温水供給がガスのため、自宅では入浴できず、休みになると温泉施設に行った。どこも大勢の方が来ており、一苦労だった。おかげでそれ以来、子供たちは2、3日に1回しか入浴しなくなり、たまに臭くてしょうがないことがある。

・勤務先:病院は深い基礎の上に建っていたため、その周辺が沈下し多少段差ができました。スプリンクラー関連の配管が破損し、事務・医局・手術室が水浸しになりました。ライフライン全てストップしましたが、重油タンクがほぼ満タンだったため、暖房や自家発電は割と制限せずに利用できました。自宅:ライフラインがストップし、ガスの復旧に長期間掛ったため、自宅で風呂に入れたのはゴールデンウィークの頃でした。

・停電・断水が4日間ほど。勤務時間内の震災だったため、病院に10日寝泊り。病院は、水・湯が出てある意味快適だった。自宅にいた家族は、はるかに苦労したようだ。

・自宅では電気、水道は数日で回復したが、ガスは1カ月かかった。病院は自家発電に余裕があり、業務に支障ない程度の電力は得られた。水道は町が独自の水源から病院に優先的に供給してくれたため、通常どおりに使用できた。ガスはプロパンなので問題なかった。一番の問題はガソリン不足であった。

・ガスが止まったため医療器材の滅菌ができなくてこまった。電気水道は確保されていた。

・5階建ての1階部分の天井まで土砂が流れ込み、外来、薬局、営繕使用できなくなった。ライフライン寸断。1階に備蓄食料、薬剤使用不可。瓦礫や海水で出入りできない状態。休みの看護師3人が死亡。

【福島県】
・水道と都市ガスガスが1週間ストップ、ガソリン、重油の枯渇。

・水道、電気は止まったが、自宅はテレビが壊れた程度で、本棚や食器棚はひっくり返った。職場も水道、電気は止まったが、免震構造の建物なので、被害は軽度。

・屋根の瓦が全て崩落した。壁という壁に亀裂が走り、ドアが歪んで開かなくなった。駐車場には地割れができた。

・電気、水道がとまった。建物の被害はその時は一見無かった。ただし、その後、漏水が判明した。どこから漏れているか分からず。それまで1万円代だった水道代が徐々に増加し、20万円代に至ってやっと普通でないことに気づいた。修理したのはごく最近。もっと早く気づけば補助が出たが、時既に遅く、約200万円の持ち出しとなった。

・病院ではエレベーターが使えず、食事を職員一丸となって手と足で患者さんに運んでいました。水がなくて、透析、内視鏡検査に支障をきたしていました。当院では他病院からの受け入れが多くありました。

・病院のスプリンクラー誤作動で3F、4Fは水浸し。エレベーターは故障してしばらく復旧できず。1Fのホールの天井が落ちて復旧には約2年かかった。

・勤務先は幸い病棟の立て替え工事が終了していたので、入院患者の安全は確保できましたが、外来診療は、極めて制限されたものでした。水・電気は確保できましたが、薬が不足し、やりくりに苦労しました。個人的には、ガソリンが入手困難のため、通勤に支障がありました。

・電気はつくが、6週間にわたり断水、 救援物資も初めの1週間はなし。風評被害による物流の停止、ガソリンなし、薬なし、食料なしの状態。

・水が赤濁、放射線汚染の可能性もあり、飲用に使えなかった。

・(福島第一原発の)3号機が爆発した3月14日が最終処方日。10数人に処方した。光電話だったため、NTTのサーバーがダウンしたせいで一般電話も携帯電話も使えなかったのが一番困った。

・附属病院は停電はなかったが、断水となった。入院患者の飲料水・食事は確保。職員の食糧、飲料水支給は発災当初無し。暖房は病棟のみ。研究室の本はほとんど落下。試薬は耐震対策が行われていたので、自分の部署の危険薬の破損はなかった。自宅は1週間後に帰ってみたら停電、上下水道破断、食器は収納庫の扉が開いたところは全て落下し破損、床中に散乱、妻が一人で片づけていた。書斎の本はほとんど落下し、部屋に入れない状態。家の後ろの土手が崩壊したが、幸い自宅には届かなかった。新幹線は停止、高速道も通行止め、ガソリンの供給がなくなり、移動手段が限られた。原発事故後15日ごろ空間線量は20μSv/h程度に達し、降雪に伴いプルーム中の放射性物質が土壌に定着。

・自宅、勤務先とも居住制限区域内。1年前に勤務先の再興ならず廃院となる。



http://www.asahi.com/articles/DA3S12232198.html
(東日本大震災5年)災害拠点病院、策定3割のみ 被災時の医療継続計画
2016年2月28日05時00分

災害拠点病院のBCPマニュアル策定状況
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 全国約700の災害拠点病院のうち、被災時に医療を継続するためのマニュアルを策定しているのは昨年春時点で約3割にとどまることが、朝日新聞の調べでわかった。病院が被災し、停電や薬の不足で患者が亡くなった東日本大震災の教訓をもとに、厚生労働省が求めている。「策定の仕方が難しい」といった声もあり、厚労省はログイン前の続き、具体例を示すなどして整備や普及を促す。

 被災時に医療を中断させないための準備や行動計画をまとめたもので、企業などで使われる「BCP(事業継続計画)」の考え方に基づく。災害を想定し、弱点を事前に補うとともに、外部との協力が必要になってくる。例えば、自家発電の燃料や薬を優先的に供給してもらうための取り決めなど対外的な調整▽衛星電話など通信手段の確保▽医療スタッフが不足した場合の応援要請や受け入れ体制の整備などが求められる。

 厚労省は2012年と13年、都道府県を通じBCPマニュアルの整備を要請。朝日新聞が各都道府県に確認すると、15年4月時点で策定済みは、695の災害拠点病院のうち228病院(33%)。東京(83%)や岩手(82%)など7都県で5割を超えた。首都直下地震に備える東京は、独自の指針をつくるなどして策定率が上昇。南海トラフ地震が予想される高知県では、ノウハウを持つ企業が支援する。長野、和歌山、岡山では策定済みの病院がなかった。

 阪神大震災を教訓に作られた災害対応マニュアルは、救命救助など初動対応に重点が置かれ、病院の被害を具体的に想定しているケースは多くない。本間正人・鳥取大教授(救急・災害医学)は「内陸には津波はこないから必要ないと考えている病院があるのではないか。洪水や豪雨などあらゆる災害を想定する必要がある」と指摘する。

 (田内康介)



http://www.yomiuri.co.jp/local/fukushima/news/20160228-OYTNT50089.html
帰還促進、医療と交通カギ…震災5年知事に聞く
2016年02月29日 読売新聞 福島

 来月11日に東日本大震災から5年となるのを前に、内堀知事は読売新聞などのインタビューに応じ、東京電力福島第一原発事故の避難指示が解除された地域で公共交通網の整備を進め、医師確保に継続的に取り組む考えを示した。

 ――震災5年となる。

 「復興の途上にある。今もなお10万近くが避難生活を続ける。インフラの災害復旧査定を見ても現状把握すらできていないところもある。原子力災害の大きさを改めて感じる。復興はまさにこれからが正念場だ」

 ――課題は。

 「一つ越えてもまた新しい課題が出て、増え、広がっていく。中間貯蔵施設の建設や搬入受け入れは節目だったが劇的に片づいたわけではない。整備や地権者説明も十分でない。除染も片づいていない。風評被害もそうだ。福島は原子力災害という特殊な事情の中で新しい課題に挑戦し続けなければいけないのだと実感している」

 ――反省点は。

 「災害公営住宅はできるだけ早く整備しようと全力で取り組んでいるが、どこにどれだけ造るかが難しい。望ましい土地が手に入らない。資材や人材の不足などで遅れている。県として十分スピード感を持って対応できない部分だ」

 ――今後、多くの地域で避難指示が解除される。

 「戻ろうか迷っている人に聞くと、仕事や病院、買い物の場、郵便局があるかなど、悩みは百人百様だ。県として安心して生活できるようにするが、幅広い、きめ細かい対応をしなければならないのが一番難しい。国や他県の力を借りながら、市町村と一緒に取り組んでいくしかない」

 ――どうやって住民に帰還を促すか。

 「医療と公共交通が基軸になる。地域医療では2次救急医療体制整備に取り組むが、県内全体が医師不足だ。国と相談し、基金を作って医師を県内に呼び込む施策を継続的に行い、県内での融通も行う。商業などの様々な施設の建設や運営の構想があるが、国の補助が対象とならない事業もある。県として財政支援も含めて積極的に関わりたい」


  1. 2016/02/29(月) 05:49:32|
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