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Doctor G 3 のメディカル・ポプリ

地域医療とプライマリケア、総合診療などに関係したネット上のニュースを記録。医学教育、研修、卒後キャリア、一般診療の話題、政策、そしてたまたまG3が関心を持ったものまで。ときどき海外のニュースも。

10月30日 震災関連

http://mtpro.medical-tribune.co.jp/mtnews/2011/M44430331/
第59回日本心臓病学会
東日本大震災 循環器内科医が得た教訓

[2011年10月27日(VOL.44 NO.43) p.33]

 東日本大震災は災害時医療に多くの教訓を残した。今回のような甚大な被災も想定したシステムを再構築し,将来の震災に備えなければならない。神戸市で開かれた第59回日本心臓病学会(会長=川崎医科大学循環器内科・吉田清教授)の特別企画「東日本大震災からの経験-循環器内科医の立場から-」(座長=東北大学循環器内科学・下川宏明教授,岩手医科大学循環器・腎・内分泌内科・中村元行教授)では,被災地医療機関,後方支援病院,学会というそれぞれの立場から,今回の震災の教訓とそれに基づく今後の課題が報告,討論された。

■被災地医療機関/電子カルテのクラウド化を

 海岸から100mもない岩手県大船渡市の滝田医院は,大津波にあっけなくのまれた。滝田有院長は家族とともに同院2階でおぼれた。第1波が引いた後に自力で脱出したが,家族の容態が悪化。その治療のため,やむを得ずいったん被災地を離れることになった。10日後に現地に戻ると,同院の建物はかろうじて残っていたが,使用できる状態ではなかった。医療機器や電子カルテが入っているハードディスクも使用不能。何より大事と考えた電子カルテの再生を専門業者に託した。4月初めから,3km離れた公民館で仮設診療所を開き,再生できた電子カルテを用いて診療を開始。「内科領域では地域性もあり,高血圧患者が多い。降圧薬も流されてしまった上,服用していた薬が何か分からないという患者が増えて困った」と同院長。「電子カルテのデータをクラウド化(インターネット上に保存)して,治療情報をしっかり保護できるようなシステムが必要だ」と訴えた。

■マニュアルは発生時間も考慮して

 宮城県の石巻市立病院は石巻港が目の前(当時)。大津波に襲われ,入院患者150人,職員180人を含む約450人が孤立した。循環器科の赤井健次郎部長によると,電気は地震発生直後から,1階にあった非常用電源を含めて使用不能に。水道も断水。1階に備蓄していた非常用飲料水,非常食は流された。固定電話,携帯電話とも不通で,防災無線も全く機能しなかった。3~4日目に災害医療派遣チーム(DMAT)による患者らのヘリコプター搬送が行われ,5日目には職員も全員脱出した。

 こうした経験から,同部長は,災害を考慮した病院立地,非常用電源や非常食などの2階以上への分散保管,大津波を想定した災害時マニュアルの変更,複数の衛星電話設置と予備電源確保などが不可欠だと指摘。地震が夜間であったら「職員が極端に少なくなるため,150人の患者を速やかに上層階へ搬送,誘導することはできなかっただろう。また,職員は地震発生直後に自宅を出て,病院に向かう途中で,多くが大津波に遭った可能性もある」とし「想定の範囲をもっと広げてマニュアルを改訂し,日ごろから訓練しておく必要がある」と述べた。

■後方支援病院/沿岸部患者受け入れの実績生きる

 今回の震災で後方支援病院が重要な役割を果たした。岩手県では沿岸部にある県立病院10施設のうち3施設が使用不能,4施設で入院診療に大幅な制限が出た。診療を維持できた沿岸部3施設には,多数の患者が搬送され,混乱に陥った。そこで,全国から集まったDMAT,救急隊などにより,100kmほど離れた内陸部県立病院10施設へ,病態に応じた患者搬送が行われた。

 内陸部県立病院の1つ,岩手県立中央病院では,救急医療部の野崎英二部長が受け入れ患者の診療で指揮を執った。同部長は「他の県立病院と同じく,当院も普段から沿岸地域からの救急患者を受け入れてきた。また医師同士が学会などで顔見知りということもあり,スムーズに受け入れ,当院からさらに近隣の病院などに紹介することもできた」と振り返った。ただし,診療は平時のようには行えず,最初の1週間は予定手術などをすべてキャンセルし,救急医療に専念した。

 3月1カ月間の救急車搬入件数は,前年同月比で40%近く上昇。総合内科,消化器内科,循環器科,整形外科では患者数が30%以上に増加。循環器疾患は,心不全,急性心筋梗塞(AMI)が増加した。

■たこつぼ心筋症やAADが増加

 岩手医科大学病院循環器・腎・内分泌内科の中島悟史氏(現・盛岡赤十字病院循環器科副部長)は,震災後に県内基幹病院でどのような循環器疾患が増えたかを検討した。調査したのは,同院,カルテ消失を免れた県立病院8施設と他の基幹病院1施設の計10施設。各病院の外来・入院カルテ,外来日誌,急患室の記録,トリアージタッグなどから情報を収集した。対象期間は,震災直後から5月10日までの2カ月間。前年,前々年の同時期と比較した。対象疾患はAMI,狭心症,うっ血性心不全(CHF),急性大動脈解離(AAD),肺血栓塞栓症(PTE),たこつぼ心筋症の6疾患。

 解析の結果,CHF,AMI,PTE,たこつぼ心筋症(患者数の多い順)が増加。たこつぼ心筋症やAADの増加率が高かった。同氏は「それまで服用していた薬がなくなって中断したり,やむなく別の薬に変更する患者が多かった。そうした影響で今まで抑制されていた心不全が再燃,あるいは精神的,肉体的ストレスが誘因となり,たこつぼ心筋症などが増えた可能性がある」と推測。「沿岸部では受診手段がなかったため,実際の発症数はもっと多いと推測される。より詳細な情報を追加調査し,検討したい」とした。

■日本心臓学会/DVTマニュアルなど情報発信

 一方,日本心臓学会もさまざまな対応を行ってきた。同学会の広報委員長を務める東京医科大学第二内科の山科章教授が概要を報告。それによると,まず,震災支援チームの発足,関係学会・団体との電子メール,ホームページを通じた情報共有などを推進。さらに,日本循環器学会の震災対策プロジェクトにジョイントし,震災に伴う循環器関連対策としての広報活動(災害医療に役立つリンク情報の提供,予防啓発ポスターの作成,被災地医師向けのホットライン設置など)や他学会・組織などとの連携を図った。

 配信した情報や書式は,被災地の医師向けの疾病情報,循環器疾患対応カルテ,薬剤情報検索用ファイル,循環器領域の震災関連論文など,現場ですぐに役立つもの。例えば,医療関係者向けの疾病情報の1つとして,下肢の深部静脈血栓症(DVT)診断のポケットマニュアル(関西電力病院臨床検査部・佐藤洋氏ら作成)を学会ホームページからPDF形式でダウンロードできるようにした。高リスク被災者の選定基準,診断チャート,DVT評価の基本,患者下肢の写真,DVT予防法などが盛り込まれている(図)。

 同教授は「日本心臓病学会を含む各学会が非常にアクティブに活動したと思う。ただ横の連携があまり取れていなかった。学会間のコーディネート体制が必要ではないか」と課題を挙げた。

 座長の下川教授は,予想を超えた甚大な被害まで想定した災害マニュアル改訂の必要性を強調。また,座長の中村教授は今後さらに循環器疾患の増加が予想されるとし,いっそうの診療支援を呼びかけた。



http://mainichi.jp/area/ehime/news/20111030ddlk38040394000c.html
東日本大震災:石巻赤十字病院・石井さん、災害医療経験語る--松山 /愛媛
 ◇「基本は即断即決」
毎日新聞 2011年10月30日 地方版 愛媛

 宮城県石巻市の石巻赤十字病院の医療社会事業部長で、東日本大震災後に、全国から応援派遣された医師や看護師らによる「石巻圏合同救護チーム」を統括した石井正医師(48)が29日、松山市山越町の県男女共同参画センターで講演した。現地での経験や教訓を語り、県内の医療・消防関係者ら約300人が聴き入った。

 愛媛県立の4病院などが研究発表する県立病院学会での特別講演。震災後に愛媛のチームが石巻市で活動した縁で招いた。

 石井さんは「市役所で約300カ所の避難所リストを入手したが、避難者名と数のみ。飲み水はあるかなどの情報も、傷病者の情報も無論なかった」と震災直後の状況を説明。行政も被災して当てにできず、自分たちで避難所の食料不足や衛生状態の情報を集めた経験を話し、「情報は向こうからやって来ない。医療に限定せず、必要なことなら何でもやった」と振り返った。

 9月の活動終了までには全国から延べ約3600チームが参加。石井さんは非常時のチーム運営で求められたことについて「メンバーにチームの方向性のコンセプトを明示していた」「基本は即断即決」などと語った。また、「組織個別での活動は非効率」と、県や医師会、自衛隊などから全権委任を取り付けたことも明かした。

 3月に石巻市で活動し、この日も聴講した県立中央病院の薬剤部次長、奥津武志さん(49)は「愛媛で大災害が起きても、まだ石巻のようには動けないだろう。訓練や準備が必要だ」と話していた。【中村敦茂】



http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20111030_3
13診療所の再開できず 沿岸12市町村
(2011/10/30) 岩手日報

 東日本大震災で被災した沿岸12市町村の病院と医科診療所67施設のうち、9施設(13・4%)が閉院し、4施設(5・9%)の再開のめどが立っていないことが県のまとめで分かった。13施設全てが診療を再開した病院(20床以上)に比べ、零細な民間経営が多い診療所(19床以下)の復興が遅れており、地域差も大きい。感染症の流行期を控え、各地で「かかりつけ医」の役割を果たしてきた診療所の一日も早い機能回復が望まれる。

 震災では、沿岸12市町村の病院と医科診療所131施設のうち67施設が被災。19施設中13施設が被災した病院は、改修や仮設診療所の開設で1日までに全て診療を再開した。

 112施設のうち半数近い54施設が被災した診療所も、仮設診療所などで約7割が診療を再開。一方、医師の死亡などで9施設が閉院し、4施設の再開のめどが立っていない。

 震災前から医師不足が深刻だった沿岸部で、診療所が減少した影響は大きい。

 特に陸前高田市は9カ所の医科診療所が全て被災したが、これまでに診察を再開したのは5施設にとどまる。

 そのため県医師会(石川育成会長)が8月から同市の第一中に仮設診療所を開設。内陸部の医師が出張して耳鼻科や眼科、皮膚科などを診療し、地域の初期診療(プライマリーケア)を支えている。

 同市高田町の仮設診療所で内科の診療を再開した、鵜浦医院の鵜浦章院長は「閉院したり再開していない医院が担っていた診療科のフォローが課題だ。今は、専門医がいる医師会の診療所に患者を紹介することもある」と話す。

 一方、仮設診療所で診察を再開した県立高田病院(石木幹人院長)は外来患者が増加。再開していない診療所の患者の流入が一因とみられ、医師の負担が増している。

 県は、国の地域医療再生基金などを活用し、医師会の診療所運営や仮設診療所の整備を支援する方針だ。

 歯科診療所も全施設の55%に当たる60施設が被災。5施設が閉院し、7施設で再開の見通しが立っていない。

 宮古市の熊坂内科医院の医師で前同市長の熊坂義裕盛岡大栄養科学部教授は「医療の無い所に人は住まない。復興までの数年間、被災地の診療報酬を加算するなど、診療所の再開を促す対策が必要だ。復興のためにも、かつてない大胆な措置が求められている」と話す。
engann20111031



http://blog.kahoku.co.jp/inochi/2011/10/post-35.html
いのちの地平 第5部=震災
(4)生命線/在宅介護、停電の恐怖

(2011/10/28) 河北新報

 今月5日、気仙沼市の写真スタジオ。1年遅れの七五三の撮影は、穏やかな秋の日が差し込む下で始まった。羽織はかま姿の男の子が、小さなベッドに横たわる。首元から伸びる人工呼吸器の管は命を支える「生命線」だ。

 難病のミトコンドリア病と闘う気仙沼市の川口倹司ちゃん(5)。数え年で5歳になった昨年は呼吸器を付けたばかりだったため、記念撮影を見送っていた。
 震災を乗り越え、七五三を祝うことができる幸せを、母親の清美さん(44)はかみしめた。
 ミトコンドリア病は国指定の特定疾患。細胞の中でエネルギーをつくる働きをするミトコンドリアの機能が落ち、脳や心臓などに異常を来す。倹司ちゃんは自発呼吸が難しく、重い意識障害もあり、全介助が必要だ。


<呼吸器どうなる>
 3月11日、激しい揺れに襲われたとき、清美さんは買い物先のスーパーにいた。大渋滞を避けて裏道を通って自宅にたどり着くと、長女の気仙沼西高2年、安耶香さん(16)が涙を浮かべ、倹司ちゃんのベッド脇で途方に暮れていた。
 「お母さん、電話がつながらない。電気も止まった。どうしよう...」
 海から自宅までの距離は約1キロしかない。清美さんは、子どもたち4人を近くの階上中に避難させ、倹司ちゃんと2人で自宅に残った。
 保健所から説明されていた災害マニュアルの対応は「救急車を呼ぶ」だった。しかし電話は何度かけてもつながらない。呼吸器は内蔵バッテリーに切り替わったが、いつまで持つのか分からない。
 「高台に避難してください」。消防車のスピーカーの声とサイレンが響く。「流されるかもしれない」。余震と津波の恐怖に襲われた。
 何度目の119番だっただろうか。午後3時半すぎ、ようやく電話がつながった。救急車に乗り込み、気仙沼市立病院に到着したのは午後5時ごろ。津波は自宅の300メートル手前まで押し寄せた。
 清美さんは「停電や電話が通じないとき、どうすればいいのか。在宅の家族はみんな不安を抱えている」と訴える。

<災害対策示さず>
 「メニューはそろっているが、いつも品切れ」。私たちが、遷延性意識障害の患者を在宅で介護する家族から耳にしたのは、制度は名ばかりで、医療・福祉サービスの提供が整わない現場の実情だった。
 厚生労働省は2012年度、「在宅医療推進室」に専任の室長を配置して体制強化を図る方針だ。医療・介護の連携を密にして、在宅医療の推進や支援に取り組むという。
 しかし、停電した場合の医療機器の電源、避難誘導など災害対策に関しては、「これから検討する」(厚労省医政局)と答えるにとどまる。
 東日本大震災では、倹司ちゃんをはじめ、重度の意識障害者を在宅介護する家族が身動き取れず、孤立無援の状態に追い込まれた。明確な災害対策を示さず在宅医療推進をうたっても、被災地ではむなしく響く。
 「けんけんのはかま姿、じぃじとばぁばにも見せたかったね」。清美さんは倹司ちゃんの耳元で優しく語り掛けた。
 羽織はかまは、陸前高田市の祖父母からのプレゼントだった。いつも孫の病状を心配していた2人は、震災で帰らぬ人になった。
 「子どもたちをよろしくね」。震災前日、電話口で「ばぁば」が話した最後のひと言を、清美さんは鮮明に覚えている。



http://blog.kahoku.co.jp/inochi/2011/10/post-36.html
いのちの地平 第5部=震災
(5)孤塁/慢性期病院、置き去り

(2011/10/29) 河北新報

 「水面が普段より2メートルぐらい低く見えた。これはただごとではないと思った」
 石巻港湾病院(石巻市)のマネージングディレクター間山文博さん(51)は、病院の前を流れる北上川を見下ろし、7カ月前の緊迫した日々を思い起こしていた。
 北上川の河口からわずか1キロ。本震の約30分後、5階建ての病院に大津波が押し寄せた。

<津波の犠牲なし>
 私たちが震災後、この病院を訪ねたのは理由がある。昨年末、遷延性意識障害者の実態調査を行った際、病院は患者を「26人」と回答していた。自分で動けない人たちをどのように避難させたのか、知りたかった。
 当日の入院者数は132人。2階の療養病棟に入院していた46人は、ほとんどがたんの吸引など医療的ケアが必要な患者で、意思疎通ができるのは4、5人だった。
 病院の判断は早かった。本震が収まると、すぐに上階への避難が始まった。看護、介護、事務スタッフ約80人が、担架、マットレスに患者を乗せて階段を駆け上がった。間山さんはとにかくスタッフを急がせた。
 「停電でエレベーターは使えないし、患者は全介助が必要な高齢者ばかり。このままでは間に合わないと思い、シーツや毛布に乗せて避難するよう指示した」
 2階からの避難が終わるのとほぼ同じころ、津波が到達した。最終的に水位は1階天井まで達したが、津波による犠牲者は出さずに済んだ。
 5階の食堂に避難した患者は51人。ほとんどが療養病棟から運ばれた寝たきりの高齢者だった。窓の外は吹雪。暖房器具はない。マットレスを敷いた床に患者を横並びに寝かせ、ありったけの毛布を掛けた。
 「点滴、おむつ、食料、水。全て不足していた」。看護部長の庄司正枝さん(44)が振り返る。
 深刻だったのは、停電でたんの吸引器が使えなかったことだ。庄司さんらスタッフは機転を利かし、注射器とカテーテルを代用してたんを吸い取った。しかし、寒さと水分不足でたんが次第に硬くなる。吸引が思うようにできない。
 病院は震災翌日から市役所や消防、警察などに窮状を訴えたが、「われわれも孤立している」「自立してほしい」とまともに応対してもらえなかった。公的機関は機能不全に陥っていた。
 日を追うごとに蓄えは減る。孤立感が増した。「うちの病院が医療を続けていることすら知られていないのではないか」。院長の石田秀一さん(67)は不安を打ち消しながら、体調を崩す患者たちの治療を続けた。

<死者通常の3倍>
 3月14日、最初の支援物資が届いた。東京と北海道の系列病院からだった。市内の災害支援拠点から初めて物資が届いたのは、震災8日後の19日だった。
 多くの寝たきりの高齢者が入院していた慢性期病院は震災直後、公的支援から置き去りにされた。石田さんは今、そんな思いを捨てきれない。
 「報道を見ても分かるように、世の中の関心は規模の大きい救急病院に向いていた」
 石巻港湾病院では3月、20人が亡くなった。通常の月の3倍近かった。



http://blog.kahoku.co.jp/inochi/2011/10/post-37.html
いのちの地平 第5部=震災
(6)遠い再建/病床減難民化の懸念

(2011/10/30) 河北新報

 4階の病室に再びベッドが運び込まれた。部屋を占拠していた調理器や給湯器は姿を消した。
 石巻市の旧北上川河口にある石巻港湾病院。津波で1階天井まで浸水したが、私たちが訪れた9月下旬には応急復旧を遂げていた。
 「厨房(ちゅうぼう)室や外来診察室のある1階の改修がようやく終わりました」。マネージングディレクターの間山文博さん(51)は感慨深そうに語る。

 震災当時は132人が入院していた。療養病棟にいたのは、全介助の必要な重い意識障害の高齢者がほとんどだった。
 停電が解消したのは3月19日、断水が復旧したのは4月15日。病院はその間も、現地で医療を提供し続けた。
 1階にあった設備を2階以上に移し、4月上旬に外来を再開した。震災直後、石巻市内の特別養護老人ホームに避難させた患者も、4月下旬には病院に戻した。
 「ついのすみかとして入院した患者さんもいる。知らない病院に転院させるのは心苦しかった」
 院長の石田秀一さん(67)が、思いを語る。

<進む縮小と再編>
 沿岸部には、療養病床のある病院が点在、在宅介護の難しい高齢者を受け入れていた。大津波の直撃を受け、石巻港湾病院のように機能を維持できた病院は数えるほどしかない。
 津波が4階まで達した宮城県南三陸町の公立志津川病院。3月14日までに患者の搬送を終え、病院を閉鎖した。
 全126床のうち、療養病棟は50床。私たちが実施した遷延性意識障害者の実数調査で、該当者として回答した「20人」のうち、生存者はわずか2人だった。
 志津川病院は床ずれや栄養管理に気を配り、関節が固まるのを防ぐマッサージを土日も施していた。看護と介護の質の高さは地域で評判だった。
 現在の入院機能は登米市立よねやま診療所に間借りする39床。療養病床は12床に縮小した。「5年以内の病院再建を目指すが、具体的な場所や規模は決まっていない」と病院は説明する。
 被災地では、震災を機に療養病床の見直しが進む。40床あった石巻市立雄勝病院は入院機能のない診療所に縮小。98床の半分が療養病床だった女川町立病院も、一般病床19床の診療所と介護老人保健施設に再編される。

<在宅介護困難に>
 療養病床に患者を送り出す側の総合病院には影響がないのだろうか。10月中旬、私たちは石巻地域最大の総合病院、石巻赤十字病院を訪ねた。ロビーに患者があふれた震災直後の混乱は収まり、通常の医療体制に戻っている。
 地域医療連携室の高橋斐美さん(29)は「急性期を脱した患者は被災状況を考慮し、内陸部の医療機関などに優先的に受け入れてもらっている」と現状を説明する。
 石巻地域では、自宅2階や仮設住宅での生活を余儀なくされ、在宅介護が困難な世帯が増えた。介護を担っていた家族を失った患者もいる。
 「石巻地域では震災前から療養病床が圧倒的に少なかった。将来的に転院先不足が深刻化する心配はあります」
 高橋さんが口にした不安の先に見えるのは、震災を引き金にあふれる「医療難民」の姿だ。
  1. 2011/10/31(月) 05:51:26|
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