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Doctor G 3 のメディカル・ポプリ

地域医療とプライマリケア、総合診療などに関係したネット上のニュースを記録。医学教育、研修、卒後キャリア、一般診療の話題、政策、そしてたまたまG3が関心を持ったものまで。ときどき海外のニュースも。

3月26日 震災16日目

http://mainichi.jp/select/science/news/20110326ddm012040045000c.html
東日本大震災:3県沿岸部、病院の半数が診療制限 中長期の支援、課題

 東日本大震災で大きな被害を受けた岩手、宮城、福島県の沿岸部で、医師会などが診療状況を確認できた医療機関の過半数は、何らかの形で患者の受け入れを制限していることが毎日新聞のまとめで分かった。持病のある人の日常診療や避難生活で体調を崩した人などの受け皿が不足し、必要な医療を受けられない患者の生命が脅かされる事態になっている。地震発生直後の救急医療については阪神大震災を教訓に発足した国の災害派遣医療チーム(DMAT)があるが、被災地の医療体制を中長期的に支える仕組みはなく、災害医療の新たな課題が浮上している。【加藤隆寛、福永方人、松谷譲二】

 各県や県医師会などが25日までに診療状況を確認できた計231の病院と診療所についてまとめた。このうち121機関(52%)は「再来患者のみ」「かかりつけ患者のみ」などと診療を制限。33機関(14%)は診療していない。実際には、建物が流されたり、連絡がつかない医療機関が多数あるため、地域の中で機能している医療機関の割合はさらに低いことが確実だ。

 診療を制限しているのは、岩手県が65機関中31機関(うち診療不可は16機関)▽宮城県が122機関中63機関(同6機関)▽福島県が44機関中27機関(同11機関)。小規模な診療所では「軽症のみ」などと限定するケースが多い。多くの機関は診療時間を大幅に短縮している。
    ◇
 地震発生から2週間が過ぎ、医師らスタッフの疲労度も高まっている。

 気仙沼市立病院(宮城県)は25日から一般診療を一部で再開したが、薬を求めて来院する被災者などに対応するため、内科や脳外科など5診療科は休止したままだ。自宅や車を流されるなどして通勤できない医師ら100人程度が病院に泊まり込み、避難所への往診や自宅に戻った高齢者の巡回診療などもこなす。加賀秀和事務部長は「スタッフは疲労がかなりたまっている」と心配する。

 福島県内では、原発事故を心配して遠方へ避難した医療関係者が多く、「医師や物資の不足より、看護師や検査技師などスタッフの不足がむしろ深刻だ」(病院関係者)という状況に陥っている。
    ◇
 こうした医療の窮状をサポートする役割を期待されているのが、DMATに加え、日本医師会や日本赤十字社などの各団体が避難所などに派遣する支援チームだ。ほかにも、独自の判断で被災地入りした医師らがいる。しかし、初期に入るチームは主に救急医療を想定した装備で乗り込んでおり、多くのチームの活動は3日~1週間を目安にしている。宮城県の担当者は「(支援チームだけでは)慢性的な疾患への対応が難しい」と話す。

 岩手県の担当者も「非常に助かっているが、『1週間でおしまい』というのは困る。継続的に支援してくれるチームに入っていただきたい」と訴える。新たに入るチームとの間で引き継ぎは行われているが、時間の経過とともに患者一人一人の病状に合わせたきめ細かな対応を求められ、メンタルヘルスや感染症予防も課題になってくる。

 厚生労働省医政局指導課は「今後、地域の医療資源をどれだけ有効に活用できるかが重要だ」と地域の自助努力を求めるが、国として中長期的な支援の具体策は打ち出せていないのが現状だ。日本医師会は「被災地から戻ったチームから聞き取りをするなどして検証することが必要」としている。
    ◇
 地域医療の機能回復へ向けては、ガソリン不足も大きな壁となっている。福島県医師会の土屋繁之理事は「在宅で治療する患者の回診や緊急時の対応には車が不可欠。ガソリンが足りず、医師の活動が院内に限られてしまっている」と懸念を示す。

 気仙沼市立病院の加賀事務部長も「スタッフが車で通勤できるようにするため、ガソリン不足を早く解消してほしい」と訴える。

 石巻赤十字病院(宮城県)の事務担当者は「慢性疾患の薬でも、在庫切れを防ぐために数日分しか渡すことができない。ガソリンがなくて車で通えない高齢者らは非常に困っている」と話した。

毎日新聞 2011年3月26日 東京朝刊



http://www.m3.com/iryoIshin/article/134459/?portalId=iryoIshin&pageFrom=openIryoIshin
東日本大震災(支援の動き)
全国規模の病院チェーン、救援活動に強み発揮
本部による現地ニーズ把握と支援者のマッチングがカギ

2011年3月26日 橋本佳子(m3.com編集長)

 3月11日の東日本大震災から2週間。被災地では様々な救援活動が続くが、医療分野で迅速に活動を始めたのは全国規模で展開する病院組織だ。

 日本赤十字社だけでなく、国立病院機構などの公的組織に加え、民医連(全日本民主医療機関連合会)や医療福祉生協(日本医療福祉生活協同組合連合会)、徳洲会グループによるNPO法人TMAT(徳洲会医療救援隊)など、全国各地に同一法人あるいは関連法人などとして医療機関を持つこれらの組織は、震災直後から被災地入りし、人的・物的支援を開始した。日ごろから病院運営や職員研修、あるいは物品の協同購入などでつながりがある強みを生かし、迅速に救護活動に従事する医療者を募集できたこと、被災地にある関連の医療機関を拠点に活動を展開できることなどが理由だ。

 主な組織の救護活動実績は以下の通り(人的な救護活動、DMATなどの活動は除く)。また、やや立ち上がりが遅かった日本医師会の災害医療チームJMATも、ここ数日で活動チームが急速に増えている。

◆日本赤十字社(3月25日0時現在)
 救護班を延べ337チーム派遣(活動中42チーム、活動準備中46チーム、活動終了249チーム。救護班は、医師1人、看護師3人、運転手1人、事務管理要員2人が基本)。
◆国立病院機構(3月25日10時現在)
 医療班を延べ46チーム、230人を派遣。
◆民医連(3月24日17時50分現在)
 950人(医師200人超)、延べ4020人を派遣。
◆医療福祉生協(3月23日現在)
 延べ医師100人(うち歯科医師3人)、看護師・保健師134人、技術者33人、事務職員108人、セラピスト(臨床心理士など)20人、その他45人を派遣。
◆TMAT(徳洲会グループ)(3月26日現在)
 延べ300人超を派遣(医師3人、看護師6人、事務職員3人を毎日派遣、現地4カ所の拠点に赴き活動)

◆JAMT(日本医師会災害医療チーム)(3月24日15時現在)
 派遣中もしくは派遣済みは延べ111チーム、派遣準備中93チーム(医師1人、看護職員2人、事務職員1人)

 民医連ではバスで毎日、支援班を派遣


 民医連と医療福祉生協は、共同して支援活動に当たっている。震災当日から被災地の情報収集に当たり、3月12日には本部からも現地入りした。現在、拠点にしているのは、宮城県塩釜市の坂総合病院。357床の地域の基幹病院で、塩釜市も甚大な被害を受け、ライフラインを断たれたものの、同病院は自家発電で4日は持つなど、診療機能は維持できた。

 坂総合病院には、避難者も含め、通常以上の患者が訪れ、職員は自らが被災しながらも、診療に当たっていた。同病院の職員を支えるほか、また地域の避難所を回る活動を展開。「支援する医療者は全国各地から集まっている。短期間では2、3日だが、1週間支援活動に従事する人もいる」(医療福祉生協事務局)。民医連では、支援スタッフの移動のため、東京発と坂総合病院発の2台のバスを毎日運行、物資支援の車も週2便出している。

 民医連は4月1日以降、活動の範囲を広げ、長町病院(仙台市)や松島海岸診療所(宮城郡松島町)にも拠点を置く。「震災当初は急性期の患者への対応が中心だったが、今後は、生活を支えるための医療、介護などが必要になってくる」(民医連事務局)。そのほか、岩手県については、行政や医師会などと相談中で、福島県と茨城県についても、医療機能維持のための支援、原発事故避難者への支援を検討している。

 TMATは広ボランティアを募集して活動

 TMATも動きは早かった。3月11日の夜には、先発隊が被災地に赴いた。東京の徳洲会本部からバスを毎日運行して支援スタッフを派遣、仙台市の仙台徳洲会病院を拠点に、岩手県大船渡市(1カ所)、宮城県の気仙沼市(2カ所)、本吉郡南三陸町(1カ所)の4カ所で、避難所などでの救援活動を展開している。

 TMATの特徴は、徳洲会グループの病院に限らず、広くボランティアを募集し、支援活動に当たっている点だ。現地で必要な診療に必要な備品はもちろん、現地での宿泊・食事などもすべてTMAT持ちで、支援活動に従事する期間の損害保険もかける。

 TMATでは、東京の本部が支援ボランティアの募集を行う上、本部職員も仙台徳洲会病院に派遣、被災地のニーズを把握、両者のコーディネートを行っている。「被災地の通信事情は非常に悪いため、衛星電話を用いて毎日報告を受け、どんなニーズがあるかを把握、派遣するボランティアの調整を行っている」(TMAT事務局)。本部機能がこうした調整役を担うのは民医連なども同様で、ニーズに見合った支援活動につながっている。

 組織間の「ヨコの連携」、長期的対応が課題

 支援活動を行う組織が異口同音に指摘するのが、震災直後の情報把握の難しさ。被災地の自治体、あるいは医師会の職員、会員自体が大きな被害を受け、特に初期段階は情報収集に手間取り、効率的に活動することが容易ではなかった。

 震災後2週間が経ち、こうした状況は改善はされつつあるものの、組織間の連携不足という問題は残る。「ある避難所に行ってみると、別の支援チームが既に入っており、活動場所を変更することが時々あった。自治体自体が被害を受け、また被災者の対応に追われていたので、致し方なかった。状況は刻一刻と変わることもあり、各地域のニーズを把握して、今後は広域で、医療だけでなく、支援活動全体を指揮するコーディネート役が必要なのではないか」と指摘する向きは多い。

 また震災直後の急性期医療への対応に終わるのではなく、半年、1年など長期の支援が必要なことも確かだ。

 被災地で診療を続けている医療機関は、職員自身も被災している中、これまでの診療に加え、診療不能になった病医院の患者も受け入れている。こうした医療機関への支援と同時に、被災した病医院の再建が課題。さらには福島第一原子力発電所の事故に伴い、被災者は遠隔地へ、中には集団で移動するケースもある。これらの被災者、患者への対応という問題もある。既に各地の入院患者、透析患者の受け入れが始まっているほか、各団体は全国の組織下の病院に受け入れ可能状況などの調査を開始している。

 医療提供体制面での支援のほか、医療内容では、メンタルケアをはじめ震災関連疾患への対応に加えて、原発事故に伴う被ばく問題についても、迅速かつ適切な情報発信が必要になっている。さらに、大震災による犠牲者があまりに多い上に、津波による水死が大半のため検視作業も難航、長期化している。

 日医のJMAT の活動は当初1カ月の予定だったが、期間を延長する方針(『JMATに日精協が協力、「心のケアが重要」と横倉日医副会長』を参照)。総力戦かつ長期戦の医療救援活動が続く。


http://www.sanyo.oni.co.jp/feature/shakai/earthquake2011/news/2011/03/26/20110326115719.html
東日本大震災2週間 援金や救援物資続々

 県民一丸で支援―。東日本大震災は25日、発生から2週間を迎えた。県内では各自治体などに総額約15億円の義援金が寄せられ、物不足にあえぐ被災地に救援物資が次々と届けられている。消防、警察、医療関係者も、大津波が襲った地域や避難所で活動を継続。一方、公営住宅も県内に相当数が確保され、受け入れ態勢も整ってきた。24日現在の状況をまとめた。

 県と27市町村は本庁、支所、公民館などに受付窓口や募金箱を設置。企業や団体、一個人などから多くの善意が寄せられ、県や日赤県支部でつくる「募金運動推進本部」に集まった義援金は約5億2300万円。山陽新聞社会事業団には約6億2千万円が託され、各市町村分(判明分)を含めると約15億1千万円に上る。

 【救援物資】
 県には毛布や大人用おむつ、タオル、米など約20種類が集まり、県トラック協会の協力で11トントラック10台、4トントラック1台分を被災地へ届けた。
 市町村単位では、新庄村が農家から寄せられた米1914キロを国際医療ボランティア・AMDA(岡山市)に託した。浅口市は倉庫がいっぱいになり、各町内会が軽トラックで物資を輸送。総社市は現地のガソリン不足を考慮し、電気自動車2台をAMDAに貸し出した。

 【人的サポート】
 県内14消防本部で組織する緊急消防援助隊や県警計約390人のほか、県の消防防災ヘリコプター「きび」が被災地に入り、行方不明者の捜索や負傷者の搬送、交通規制に当たった。AMDAも医師や看護師ら約60人を送り、避難所の巡回診療を行っている。
 陸上自衛隊は三軒屋(岡山市)と日本原(奈義町)両駐屯地から約380人を派遣。被災者のショックを和らげるため、精神科医や児童精神科医ら8人の「心のケアチーム」も現地入りした。

 【ボランティア】
 被災地はまだ災害ボランティアを本格的には受け入れていないが、近く大量のマンパワーが必要となることが予想されるため事前登録が進む。日赤県支部(岡山市)は23日、「防災ボランティアセンター」を開設。市内外の51人が登録した。岡山、倉敷、笠岡市の社会福祉協議会も事前登録を始め、計約220人が受け付けを済ませた。現地の要請があり次第、被災地へ派遣し、炊き出しなど生活支援を行う。

 【被災者受け入れ】
 公営住宅は、県営の山陽住宅(赤磐市)や東岡山団地(岡山市)などに計189戸用意されている。このうち49戸の入居が決まり、7世帯29人が移住した。
 県は今後、県や市町村などの住宅で約1100戸を確保。民間にも協力を求めて5千人規模で受け入れる方針。阪神大震災(1995年)以来の大規模な支援態勢を敷く。
 市町村独自の取り組みでは、久米南町が震災で自宅を失った人のため、定住を条件に、町の分譲宅地20区画の無償譲渡を決定。住居を自費で建築できることなどが条件となる。


http://www.mutusinpou.co.jp/news/2011/03/15638.html
2011/3/26 土曜日
石巻へ医師ら5人派遣/弘大

 弘前大学(遠藤正彦学長)は25日、宮城県からの要請を受け、東日本大震災で被災した同県石巻市に弘大医学部附属病院(花田勝美院長)の医師、看護師ら5人を派遣した。弘大は人員を入れ替えながら1カ月程度現地で活動する。
 第1陣は循環器内科の越前崇医師と看護師2人、病院職員2人で、石巻市の石巻赤十字病院を拠点として医療活動を行い、31日に帰弘する予定。
 25日朝、同病院第二病棟入り口前で行われた出発式では、花田院長が「体に気を付けて頑張ってほしい」と激励。
 医師や職員らの見送りを受け、一行はワゴン車1台に乗り込み現地へと向かった。
 花田院長は、被災地の情報不足を気に掛けながら「とにかくまず行ってみないといけない」と話した。



http://mainichi.jp/area/yamaguchi/news/20110326ddlk35040524000c.html
つなごう希望:東日本大震災 関門医療センター、医療チームを再派遣 /山口
 ◇国立病院機構 医師ら7人

 東日本大震災の被災者救援の輪は25日も、広がりをみせた。医療関係者や下関市出身のダンスチームら、行政も民間も官民挙げて支援に取り組んでいる。【三嶋祐一郎、井上大作】

 国立病院機構・関門医療センター(下関市長府外浦町、佐柳進病院長)が、再び医療チームを被災地に派遣することになった。25日、出立式があった。

 同センターは震災直後も災害派遣医療チーム(DMAT)メンバーとして、医師らが岩手県内で救援活動にあたった。第2弾となる今回は医師、看護師、薬剤師ら計7人の医療救護チームを構成し、4月1日まで仙台市にある仙台医療センターを拠点に被災者の救護活動に努める予定。

〔下関版〕

毎日新聞 2011年3月26日 地方版



http://www.iwate-np.co.jp/hisaichi/h201103/h1103261.html
【陸前高田】復興へ息子とともに 高田病院の佐藤副院長 

 妻が行方不明のまま不眠不休で患者や被災者の治療を続け、過労で一時入院した県立高田病院の佐藤敏通副院長(57)は、長男慧(けい)さん(28)=東京都中野区在住=と被災地の復興支援に乗り出した。ジャーナリストの慧さんは震災直後に仲間と任意NPO団体「みんつな」(本部・東京都)を立ち上げ、ボランティアスタッフを陸前高田市などに投入する計画。慧さんは「避難生活者が一人もいなくなるまで支援を続ける」と意欲を見せる。

 「みんつな」はみんながつながって津波をひっくり返そうという思いから名付けられ、震災後に慧さんが所属する通信社・スタディオアフタモード(本社横浜市)など約50団体で設立。登録者はジャーナリストや心理カウンセラー、大学生などの現地活動スタッフのほか、街頭募金などの後方支援を含めて約千人に上るという。

 震災時はアフリカのザンビアで取材活動をしていた慧さんは13日夜に帰国し、19日夜に盛岡市の県立中央病院に入院していた佐藤副院長と再会。21日に退院した佐藤副院長と陸前高田入りし、行方が分からない母淳子さん(54)を捜索。現地災害対策本部などを視察した。

 慧さんは「まずは現地がどのような状況で、何を必要としているかを国内外に発信したい。現地は支援物資やボランティアが大量に届いてもそれを仕分けする能力がない。仕分けの段階から手伝えば有意義な援助につながると思う」と話す。

 2人は「今後は被災者の心のケアが一番大切になる」と口をそろえる。慧さんは陸前高田市を拠点に、市社会福祉協議会と連携して現地ボランティアスタッフの活動環境を整える。佐藤副院長は当面の間休養し、被災地に適した医療システムの構築などについて助言する。

 みんつなではスタッフや支援情報などを募集している。詳しくはホームページ(http://www.mintsuna.net/)まで。

(2011.3.26)


http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=50198
<中国人が見た日本>中国救援隊員が語った被災地での8日間

 2011年3月21日、中国国際救援隊の一行15人が岩手県大船渡市での8日間にわたる救援活動を終え、帰国した。隊員の1人で武警総医院の彭碧波(ポン・ビーボー)医務部副主任が語った当時の様子が23日付で公式ブログに掲載された。

 震災のあった当日の夜10時(現地時間、以下同)、中国国際救援隊は救援隊員50人、医療隊員30人を集めるよう命令を受けた(実際に派遣されたのは15人)。彭氏ら医療分隊は11時には全員が集合した。翌12日の正午には4トンの救援物資とともに羽田空港に到着。軍用機で大船渡まで飛んでいき、救援活動を始めた。

 大船渡は想像以上の惨状だった。多くの家屋が津波で100メートル以上流され、割れたガラスの破片が飛び散っていた。まるで廃墟だった。現場では生存者の捜索と災害状況の調査が主な任務だった。彭氏は首席医療官として隊員を率いた。地元の消防署に割り当てられた捜索区域は計4平方キロメートル、家屋1000戸分だった。15日に遺体を1体発見した。

 14日からは朝6時半から夜6時まで、捜索活動を行った。彭氏は報告書を書く仕事もあったため、就寝時間は毎晩12時を過ぎていた。インドネシア・スマトラ沖地震と四川大地震でも救援活動に参加した経験を持つ彭氏だが、今回の活動で最も大変だったのは寒さと大きな余震、それに放射能汚染への懸念だった。だが、祖国・中国を代表して来ている以上、止めるわけにはいかなかったという。(翻訳・編集/NN)
2011-03-26 10:46:11 配信



http://mainichi.jp/area/niigata/news/20110326ddlk15040082000c.html
この人にとことん:新潟大大学院准教授(臨床精神医学)・北村秀明さん /新潟
 ◇避難者の心のケアは?

 津波に原発事故も重なり、未曽有の被害が広がっている東日本大震災。自宅を失ったり、放射性物質による汚染を逃れて、県内にも大勢の人が避難している。不自由な避難所暮らしと先の見えない不安で、精神的なバランスを崩してしまう懸念も。長期化が見込まれる避難生活で、被災者の心の問題をどうケアしていけばいいのか。新潟大大学院医歯学総合研究科の北村秀明准教授(44)=臨床精神医学=に聞いた。【長谷川隆】

 ◇支援必要だが弱者扱いは禁物 声をかけ、丁寧に耳を傾ける

 --避難生活では、どんなストレスがかかるのか。
 ◆厳しい環境下に置かれれば、誰だって多かれ少なかれストレスを感じ、心や体に異変が出てくる。その時に、周囲が「トラウマだ」「精神的に病んでいる」と言うのは、よくないといわれている。被災して避難生活を送っている場合、ほとんどの人にそういう症状が出る。だが、たいていは時間の経過とともに落ち着いてくる。

 ストレスの原因はさまざまだ。広い体育館で寒くて眠れないとか、普段とは違う食事とか、慣れない布団など。心身にストレスがかかると不眠を訴えることが多い。血圧が高くなることもある。避難生活が長引くと「命は助かったけれど、いったい今後どうなるのか」と、経済的なことや子どもの就学など現実的な不安に直面する。不安と不眠は一緒に出ることが多く、イライラしたり、落ち着きをなくす人もいる。何となく体がだるい、重い、痛いという形でストレスが出ることもある。表面には出なくても、心の中で何らかの不安を抱えている。

 --新潟には原発事故の影響を心配して避難してきた人が多い。
 ◆従来の地震災害とは明らかに性格が違う。肉親を亡くしたり、全財産を失うなど打撃的なストレスではなく、忍び寄る恐怖にジワジワと襲われる。汚染が広がり、飲み水や野菜などに被害が出ているが、十分な情報が入らない。いつになれば帰れるのか先が見えない。そういう不安に長く支配されると、心身に不調が出てくることがある。

 --受け入れ側にとっての注意点は。
 ◆支援の手を差し伸べることは必要だが、弱い者扱いしてはいけない。過去の震災時の経験により医療関係者の間では常識になっている。「自分はだめな人間だ」という意識を植え付けてしまうおそれがあるためだ。受け手がグイグイ聞くのではなく、静かに待つ姿勢が大切だ。「医師や看護師が巡回しているので、もし何かあれば相談して」と伝えるなど工夫が必要だ。

 --子どもや高齢者にはどんな対応を。
 ◆小学校低学年ぐらいまでの児童に「幼児帰り」の症状を見ることがある。反抗的になる子もいる。だんだんと収まるので、見守ることが大切だ。一方、高齢者は体力的に衰えているので、避難生活はこたえる。特に1人暮らしの高齢者は心細いはずで、配慮が必要だ

 --中越地震の際には、被災者支援に奔走した。
 ◆精神ケアの専門家でつくる「こころのケアチーム」の一員として中越地方の避難所を巡回し、全村避難した山古志の人たちのケアにあたった。皆さん気丈にしていたという印象だが、話を聞いてみるとそれぞれ悩みを抱えていた。丁寧に耳を傾けるという地道な作業の積み重ねだった。
 中越地震で得たノウハウは、今回被災した東北や北関東の大学などに参考資料として提供した。ただ、今回の対応は難しそうだ。津波があって、原発事故があって、被災地域も広いためだ。

 --今後の課題は。
 ◆被災直後は命を取り留めることが最優先。けがの治療や、人工透析など中断していた治療の再開などにあたる。一段落すると、心のケアに入る。県内に入ってきた避難者のケアについては、新潟大大学院の染矢俊幸教授が中心となり、どう対応するか具体的に対策を練っている。
 物質的な復興は済んでも、心の修復には時間がかかるケースも多い。半年ぐらいまでの急性期、さらに2、3年、それ以上先をにらんだ中長期的な対応が必要になってくる。

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 ■人物略歴
 ◇きたむら・ひであき
 1966年7月、栃木県生まれ。新潟大医学部卒業。10年3月から現職。新潟大災害復興科学センター生活安全部門こころのケア分野代表も務める。

毎日新聞 2011年3月26日 地方版



http://www.iwanichi.co.jp/ken/item_23210.html
迅速な対応へ体制強化 災害対策本部支援室
 (03/26)

 県は25日、大震災を受け設置した災害対策本部の業務支援組織となる支援室の体制を、6チームから4班18チームに見直した。対策ごとに体制を整えたほか、組織内での情報のやりとりをスムーズにして迅速な対応につなげる。

 災害対策業務に当たっては、支援室が関係部署と連携して取り組んできたが、被害が甚大で膨大な業務が生じている。このため、災害対策の主要な業務ごとに部局横断的な専従チームを設け、体制強化を図った。

 新体制は、支援室長(副知事2人)の配下に、統括、部隊運用、応急対策、復旧対策の4班を配置。このうち応急対策班は、被災者支援、支援物資調達、医療対策、埋火葬支援、がれき・廃棄物対策、市町村支援の6チームで構成されている。



http://medg.jp/mt/2011/03/vol87.html#more
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災害医療・介護コーディネーターが必要です
& 患者搬送の効率的な手配システムはできないものでしょうか?


北里大学医学部神経内科学
荻野美恵子
2011年3月26日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp
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 先ほど(3月23日夕方)福島県いわき市いわき共立病院から人工呼吸器装着神経難病患者5名自衛隊のヘリで2往復して北里大学東病院まで搬送して帰ってきたところです。今回の搬送の顛末、この4日間を振り返って、皆様にもお知らせしたいと思って、書きました。

 搬送依頼の第1報は4日前の3月20日日曜日にありました。私は救急医や災害専門医でもなく、神経難病を専門としている、ただの神経内科医ですので、こんなに搬送手段の手配が大変という自覚もないまま、「月曜日に搬送になるかもしれないけれど添乗医師確保が現地で難しいので」とのことで、月曜日の早朝福島に向かいました。風評被害で空港からいわき市内にむけて走ってくれるタクシーを確保するのが困難とのことで、病院の車で迎えに来ていただきました。多くの市民が県外に移動しており、町は閑散としていました。

 今回、日本神経学会は地震4日目から「被災地の人工呼吸器装着神経難病患者の受け入れ先手あげリスト」を作成しはじめ、被災地から依頼があったらどこの病院で受けるかというマッチングの手順ができ、すばやい対応だったと思います。しかし、搬送手段の確保となると、大変難しいものでした。一度にたくさんの方を移動させるとなると内閣府の災害本部を通して自衛隊に依頼がいくようですが、おそらく立て込んでいることもあり、なかなか予定がたちませんでした。とにかく、待機しているようにいわれ、福島にいったはよいものの、いつ移動できるともわからず待つのはつらいものでした。なぜ、連絡が来ないかがわかれば、まだ対応のしようもあるのですが、どういう手順、どういう手筈でということがよくわからないまま、いまかいまかと連絡をまつという感じでした。
 その間、少しでもお役にたてばと思い、北里チームをつくり、他の地域からの災害援助隊と同様に避難所の診療のお手伝いをさせていただきました。
 22日の夜になって具体的にヘリの手配ができたことがわかり、23日早朝から亀田総合病院に8名、当院(北里大学東病院)に5名の人工呼吸器装着患者さんの搬送が無事できました。

 いわき共立病院のように地域の基幹病院として、最後の砦のように何でも受け入れなければならない状況になっておられる病院の方々はみなさん同じ思いでおられると思います。夕べもホットラインも頻回になり、「すべて断らない」という指示がでており、患者さんがどんどん押し寄せてきます。本日は、我々を送り出した後から、水道が復旧せずにこれまで自家発電で頑張ってきたけれどもギブアップという病院から百数十名の患者さんを受け入れ予定となっています。先ほどご報告のお電話をいわき共立病院にいれましたが、受け入れでごった返しているようでした。
 こんなことが各地の被災地でおきているのだと思います。同じような大変な状況で、自らも被災者でいながら、医療に奮闘されている方々がいて、一方なんとか力になりたいという全国の医療者がいて、でもその間を取り持つシステムが脆弱なため、有効に活用できない状況です。いわき共立病院にも手伝いたいという申し出が各地より来ているようですが、どのように取り扱ったらよいのか、困っている様子でした。実際ボランティア受けいれ自体に手間がかかってしまいます。
 共立病院の窓口であった小山先生は救急部の責任者で自分も救急患者の診療をしながら、搬送の依頼を同時に各地にされており、もちろん休みはとっていず、数時間仮眠してはまた仕事と、電話するのも申し訳ない状況です。だれかが専任でついて、少なくとも、搬送依頼のやり取りの補助をするだけでもずいぶん違うのにと感じました。この手配のやり取りだけで非常に時間と労力と精神力をロスします。病院の皆様には、頑張っておられることを多くの方々にお伝えする約束と、この状況が落ち着いた暁には一緒にのみに行きましょうと約束して帰ってきました。

 今回の経験を通して感じたことは、このような状況のやり取りをする専任者をボランティアでもよいので、被災地拠点病院に派遣する必要があるのではないか、官のみでなく、民が統率のとれた組織を形成し、補強しないとこの状況を乗り切れないのではないかということです。支援したいという情報を垂れ流すだけでなく、マッチングやコーディネイトする部署が必要です。今後亜急性期に入るにあたって急性期医療だけでなく、慢性期医療・介護についてもコーディネイトが重要となると思います。各被災地を裾野として人を派遣、情報を集約し、内閣府とも連絡交渉するような統制のとれた民の災害支援組織ができないでしょうか?



http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110326-00000003-rbb-sci
【地震】「生き地獄だった」「トラウマになりそう」……被災地医師による現地レポート
RBB TODAY 3月26日(土)19時22分配信

 メドピアは25日、東北地方太平洋沖地震の被災地で救援活動に従事する医師による現地リポートの一部を公開した。対象となる医師は、同社が運営する医師向けコミュニティサイト「MedPeer」の登録会員で、23日より募集されたレポートは、24日15時現在で371件となるという。現在でもレポートの募集を継続している。

 以下は医師による現地レポートの一部抜粋。

「現地での状況はテレビ報道や新聞記事の比ではありません。悲惨そのものでとても言葉で言い表せるものではありません。死因はほとんど溺水による窒息で、被害は地震の揺れよりも津波によるものが多かったようです」(一般内科、総合診療、他)

「親を亡くして立ち尽くす子へどのように接したらいいか分からない、PTSDに関してアドバイスができない。(一部省略)小児に対する“心のケア”“治療”ができるスタッフを同行させた方がよい」(小児科)

「急患の多くは低体温・感染症・外傷。薬や点滴注射の不足が深刻。医師より薬剤師支援が望まれる」(宮城県若林区の中小病院・一般内科)

「現在は電気や水は復旧したものの、放射線による被曝を最小限にすべくマスクや服装他、飲料水等に気を使う毎日です」(眼科)

「検査は単純レントゲンと採血がなんとか使えますが、CTなどは当然動いていませんでした。野戦病院というより生き地獄でした」(一般内科、総合診療、他)

「慢性疾患の通常薬がないという訴えや、トイレ、水分の問題から便秘が多くみられました。また、コンタクトや皮膚の軟膏などの需要も高かったです」(脳神経外科)

「DMATで出勤しました。空港で中等症患者の診療に当たりましたが、診療中も地震があったりして、被害にあっていない私たちでさえ、トラウマになりそうな状況でした」(一般内科、総合診療、他)

 これらのレポートには、被災地の医療現場の様子や必要な物資などが具体的に記載されている箇所もあり、何らかの形での支援を試みるうえで、参考になるだろう。現地レポートは今後も続く予定で、同社コーポレートサイト(http://medpeer.co.jp/)や「MedPeer」トップページ(https://medpeer.jp)に掲載される。


https://medpeer.jp/posting_view_review?rid=20110325-1
【医師による現地リポート】(抜粋

* 3月19日~22日まで宮城県仙台市郊外 若林区近くの中小病院にて支援。内科当直 日直業務 リハビリ室からの臨時病棟診療に携わる。時間外の患者数は予想以上に少ない。救急患者のトリアージは黒タグ(溺死多数)と緑タグが多く阪神震災であったような赤タグの患者さんの数が少ない。急患の多くは低体温・感染症・外傷。薬や点滴注射の不足が深刻。医師より薬剤師支援が望まれる。支援 の中心はおそらく避難所に移るも避難所自体は長く続けない方が健康によい。半年から1年位必要でないか。(一般内科)

* 地震発生時偶然仙台の病院に出張中であったため診療に協力した。沿岸部からは距離があり津波の被災者は運ばれなかったが転落や外傷等の初期治療にあたった。情報が乏しく混乱は大変なものであった。 (一般外科, 消化器外科)

* 石巻に手伝いに行ってきました。 現地では食料はもとより、医療物資も不足しており、満足な医療ができませんでした。 今回のような大災害ではトリアージの赤が限りなく黒に近く、黒or緑といった感じです。(放射線科)

* 県北の病院が壊滅的被害を受けたために入院ができなくなった患者さまを引き受けています。 後方支援ぐらいしかできないのが現状です。困っていることは、 ご家族と会えませんので、急変時のICなどの説明ができていません。 また、電話での連絡もうまくできないので、災害時伝言ダイヤルを使用しています。 (リハビリテーション科, 整形外科・スポーツ医学)

* 回復期病棟の主治医をしております。震災直後、患者を安全な1階リハビリ室へ、全員搬送し、ナース・リハスタッフを交代勤務とし、一元管理した。環境を整える余裕はなかったが、転倒の危険性は減り、一周目ごろからはリハビリも可能となり、何とか病院機能を維持できました。劣悪な環境の病院から、患者を引き受けられる余裕もできつつあります。しかし、依然断水のままであり、食材不足の状況は続き、まだまだ“通常営業”とは行かないようです。(一般内科, リハビリテーション科, 他)

* 私自身、被災者でもあります。地震で停電(2日間休診)や断水(約5日間トイレ使用不能&消毒は市販のもの使用)で診療に従事しました。患者さんも来院に苦労されるので人数は少なかったものの、薬を切らすわけにはいかない人には感謝されました。現在は電気や水は復旧したものの、 放射線による被曝を最小限にすべくマスクや服装他、飲料水等に気を使う毎日です。鉄道も約50%の間引き運転、もしくは液状化現象で復旧の見通しなしの状態なので車が重要な移動手段です。が、給油が大変で、営業しているガソリンスタンドが約20%位でしかも並ばないと給油できません。知人は先週、並んでいたにもかかわらず2か所共、途中でガソリンが無くなって給油できなかった経験をしています。出来ることから着実にやるしかない!この頃です。(眼科)

* 現在は帰京しましたが、14日・15日の釜石市では電気、水道、電話、携帯など復旧の見込みもなく、救急車も連絡手段が無く 突然搬送されて来るのを待つ状況でした。検査は単純レントゲンと採血がなんとか使えますが、CTなどは当然動いていませんでした。野戦病院というより生き地獄でした。 (一般内科, 総合診療, 他)

* 19日昼出発22日早朝帰着の超過密スケジュールで県医師会主導の医療ボランティアに参加させていただき、宮城県での死体検案書作製の仕事に携わってきました。涙なしではとても出来る作業ではありませんでした。現地の状況はテレビ報道や新聞記事の比ではありません。悲惨そのものでとても言葉で言い表せるものではありません。死因はほとんど溺水による窒息で、被害は地震の揺れよりも津波によるものが多かったようです。従って生きるか死ぬかの二者択一で、崩壊したがれきの中から救出される場面は少なかったようです。自衛隊員の方や警察の方が黙々とてきぱきと任務をされている姿に心打たれました。小生の医院に設けた義援金箱には短期間にたくさんの患者さんからのご厚志をいただきました。今後もいろいろな形で復興支援に携わっていく所存です。 (一般内科, 総合診療, 他)

* 小児を診ることがない医師(救急・整形外科・外科医)が多く駆り出されたが、親を亡くして立ち尽くす子へどのように接したらいいか分からない、PTSDに関してアドバイスができない。発達が正常かどうか判別できない、など成人の治療は可能だが、小児は後回し、小児の対処は分からないということが多かったようだ。小児に対する「心のケア」「治療」ができるスタッフを同行させた方がよい。 (小児科)

* DMATとして発生直後に被災地に行ったが,今回の災害は津波によるものが主で,被災者は生きているか死んでいるかの2択で,生きている人は軽症か無傷がほとんどであった.おそらくDMAT活動の見直しが図られるのではないだろうか.災害には医療従事者の派遣はもちろん重要だが,それだけでは如何ともしがたくインフラの復興などの方が重要であり無力感を感じた次第であった(その他)

* 宮城県のクリニックで診療中の地震でした。ドアを開けて、スタッフに大きいよ、と声かけるのが精いっぱいで・・あとは揺れにまかせるだけ。動くことはできませんでした。 治まってきても余震が強く、患者さん、スタッフの無事と、危険な機材の異常がないことを見極めたら、支障なく休診に移行し、患者さんとスタッフを帰すことを考えました。停電とともに電子カルテは無停電電源装置に切り替わり、アラームがなり始めていましたので、決めてあったマニュアルに従い(これがとても再開時に役立ちました)データ損傷なく電源を落とせました。 大惨事の被災地では命にかかわる、医療が必要ですが、いざというときの(殊にカルテはじめ機器の)マニュアルを簡略化しておくことが必要だと感じました。 地震から約10日後の内服切れ、避難所生活、被災地から避難してきて具合が悪くなってしまった患者さんの診療に追われてます。大被害の場所ではありませんが、後方支援に徹してます。 (一般内科, 代謝・内分泌科, 他)

* 東北地方ほどの被災地ではありませんが、茨城にある当院も病院にヒビが入り、一時的に患者さんを病院隣の体育館に避難させました。病態の軽い患者さんは退院させ、比較的新しい病棟に患者さんを収容しました。体育館から患者さんの移動は停電のなか、全職員で階段を利用して行われました。ベッドがたりず、会議室に布団をひいて病棟として利用しないと行けない状況でした。震災から1週間は朝夕出席可能な職員で対策会議を開き、乗り切った状況でした。現在は病院そのものの耐震性に問題はないとの診断結果を得、閉鎖した病棟を順次オープンしている最中です。手術室の滅菌機器が使えず、滅菌は外注と他病院の協力を得ながら行っている状態ですが手術を再開しました。もう少し落ち着けば福島県からの患者さんも引き受け可能になると思います。震災後1週間当院の透析室は福島や近隣透析病院から多いときには1日100名もの患者さんを引き受けていました。 (消化器外科, 呼吸器外科)

* 気仙沼市で4日間活動しました。医療チームはそれなりの数が集まっていました。 巡回診療を中心に行いましたが、重症な患者さんは皆無で、慢性疾患の通常薬が ないという訴えや、トイレ、水分の問題から便秘が多くみられました。 また、コンタクトや皮膚の軟膏などの需要も高かったです。 一番の問題は情報統制で、電話通じず、ガソリンなくどこで医療が受けられるかわからない、などが一番多く聞かれました。 日々、各方面のがんばりで、道路他ライフラインが徐々に復旧しています。 外傷患者さんが多いかなと思って現地に入りましたが、実際は異なっていました。 今後も機会があれば、再度気仙沼に行こうと思っています。(脳神経外科)

* DMATで出動しました。 空港で中等症患者の診療に当たりましたが、診療中も地震があったりして、被害にあっていない私たちでさえ、トラウマになりそうな状況でした。 地震発生後数日経ってから救助された泥まみれの患者さんを診療した時は、本当に日本で起きていることなのかと信じられませんでした。 移動もままならない時期から、全国各地からDMAT、救護隊、消防などが現地入りし、活動しているのをみると、日本も捨てたもんではないなあと感動しました。 まだまだこれからが大変ですが、日本人として共にこの状況を乗り越えていければと思います。 私たちも今度は救護隊として再度出動すると思います。 (一般内科, 総合診療, 他)



http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110326-00000302-mailo-l46
つなごう希望:東日本大震災・鹿児島から 宮城で救助活動、県警航空隊帰還 /鹿児島
毎日新聞 3月26日(土)16時31分配信

 ◇祖母と孫救い「うれしい」
 東日本大震災でヘリによる救助活動を行った鹿児島県警航空隊が25日、鹿児島空港に帰還。9日ぶりに倒壊家屋から救助された女性(80)と孫(16)を病院に搬送するなど、被災地での活動を報告した。
 県警航空隊は18~23日の6日間、宮城県内全域で上空から行方不明者の捜索や救助、遺体の発見に全力を挙げた。
 20日、宮城県石巻市で「2人生存」の一報が入り、現場近くにいた県警ヘリ「はやと」に搬送要請があった。慣れない土地だが、病院の場所や地名を事前に勉強していたことが役立ち、現場に急行。ヘリの風による二次被害が起きないよう慎重に上空でホバリングを続け、救出の時を待った。
 ヘリに収容された女性に高田巌隊長(54)が「大丈夫ですか」と問いかけると、女性は少し表情をこわばらせながらも「大丈夫です」と答え、その様子に安堵(あんど)したという。操縦かんを握った和田正治副隊長(41)は「女性の顔を見た時はやっぱりうれしかった」。病院に無事搬送後は感極まり目に涙が浮かんだため、高田隊長に操縦かんを渡したという。
 高田隊長は「活動中は『とにかく安全に』ということだけを考えた。沿岸全域が被災していて、上空から見て津波災害の恐ろしさを感じた」と話した。【川島紘一】



http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110326-00000265-mailo-l33
東日本大震災:心のケア最前線に 盛岡出身の小野さん、復興の願い胸に福島へ /岡山
毎日新聞 3月26日(土)16時13分配信

 ◇吉備国際大大学院卒業「困っている所支援
 高梁市の吉備国際大大学院臨床心理学研究科修士課程を今月卒業した小野舟瑛(しゅうえい)さん(24)=盛岡市出身=は4月、福島県郡山市の病院「あさかホスピタル」に就職し、心理士として被災者の心のケアの最前線に立つ。【山本麻美子】
 東日本大震災が起きた時は「ひどすぎた。津波が街をさらう映像を見た」と言う。直後に電話で家族や親族の無事は確認できたが、その後は音信不通が続いた。出身の県立盛岡第一高の友人や両親の職場には家屋が全壊したり、今も安否が不明な人もいる。
 両親がレントゲン技師と医療事務に就いていて「自分も病院で仕事がしたい」と思って育ち、「人の心が見える」と心理学を選んだ。盛岡から高梁に来て、アルバイトで塾講師や岡山市児童相談所夜間相談員、倉敷市教育センターの訪問カウンセリングを体験。地域のクラブでバレーボールも続けた。修士論文は「不登校の予防」。不眠症の治療などの研究もした。22日の卒業式では、院生を代表した謝辞も述べた。
 就職の内定は12月に得た。「盛岡から高梁に来てこんな状況の時に福島に行く。ご縁です」。就職先の郡山市は、福島第一原発から60キロ離れているものの「被災者は今、緊張状態が続いているが、落ち着いた時にしわ寄せが来る。そんな時に自分たちとのかかわりが必要になるだろう」と予測する。そして「患者さんは増えると思う。できることを積み重ねていきたい。自分が体験していないのに、つらかったですね、とも頑張ってくださいとも言えない。今生活で困っている所に支援ができないかな、と思う」と慎重な言葉に復興への熱い思いを込めた。



http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110326/dst11032620230065-n1.htm
【東日本大震災】「阪神より物資が不足」 医師会、障害男性を支援
2011.3.26 20:21

 東日本大震災で被災した宮城県石巻市で医療活動をした兵庫県医師会が26日、神戸市内で活動内容を報告した。阪神大震災と比べて物資がなかなか入ってこない現状を指摘したほか、津波で義足を失った被災男性を同医師会として支援決定したことも明らかにした。

 医療救援チームとして21日から現地に赴いた川島龍一会長は、阪神大震災との違いについて「ガソリン、灯油、食料などの物資が入らず、移動が非常に不便だった」と説明。施設ごと流された医療機関が多いため「長期、継続的な医療支援が必要」と語った。



http://medg.jp/mt/2011/03/vol89.html#more
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後方搬送は負け戦の撤退作戦に似ている:混乱するのが当たり前

亀田総合病院 小松秀樹
2011年3月26日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp
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 東北・関東大震災で、2件の後方搬送に関わった。この経験から、後方搬送は負け戦の撤退作戦と心得るべきだと痛感した。

1 関わった撤退作戦
 2011年3月17日:いわき市からの透析患者搬送作戦
 2011年3月21日:いわき市からの介護老人保健施設(老健)疎開作戦

2 いわき市のライフラインと燃料供給
 いわき市の一部は原発事故に伴う屋内退避地域にかかっていたが、大半は避難地域ではなかった。しかし、地震のため上下水道が使えなくなった。風評被害で食料を含めて外部から物資が届かなくなった。ガソリンが極端に不足した。各種設備の修理のための業者がいなくなった。外部の業者はいわき市に入るのを嫌がった。
 
3 いわき市の医療状況
 寒さ、栄養不足、環境衛生の悪化で、高齢者の肺炎が急増。いわき共立病院が患者であふれた。避難地域から、いわき市の病院に移送された患者が多数死亡したことが報道された。
 3月19日ごろ、友人から、いわき共立病院の肺炎患者95名の後方搬送の相談を受けた。
 3月20日、人工呼吸器使用中、あるいは気管内挿管されている患者8名をいわき共立病院から亀田総合病院にヘリ搬送する作戦開始。2日間、悪天候のため、ヘリが飛べず、待機せざるを得なかった。3月22日搬送。主目的は現場の負荷を減らすこと。

4 3月17日透析患者搬送
 7百数十名の透析患者を新潟、東京、鴨川に搬送するための準備作業は生半可なものではない。患者リスト、病歴サマリーなど情報伝達のための作業は膨大だったはずである。
 劣悪な環境のため、患者の全身状態は通常より悪化していた。患者の多くがバスから自力で降りられなかった。
 民間人のネットワークで、数十台のバスを用意した。前日、福島県が用意したバスで搬送予定だったが、県が厚労省に許可を求めるという悪手をうって、厚労省に止められた。そこで民間だけで搬送した。薬品会社が搬送費用を負担した。
 亀田総合病院は45名の患者を受け入れた。受け入れ本部では、送り出し側のいわき泌尿器科病院が超多忙で混乱しているかもしれないとの想定で、連絡を最小限にした。翌日聞いたところでは、予想通り、送り出し側は徹夜の作業だった。
 受け入れ側の最重要情報は、患者の氏名、生年月日。これは受診カードを作成するためである。前もってカードを作成しておくと、本人確認が容易になり、早急に診療が開始できる。この情報についても、完璧なものを現地に要求しないようにした。
 一部の診療科からは、細かい情報を現地に問い合わせるよう要請されたが、現地を混乱させるだけだと考えて、すべて握り潰した。現地の生活状況まで聞けという馬鹿もいた。
 撤退作戦では、短い言葉で表現できる情報で全体を想像する。動きながら、刻々変化する状況を判断し、決断していくしかない。
 重症患者についての細かい連絡は、バスが出発してからすることにした。

5 介護施設の生活環境
 上下水道が破壊されたため、水が得られず、トイレが使用できなくなった。排泄物がたまり悪臭がでた。しかも、放射性同位元素の室内への侵入を防ぐために換気しなかった。食糧不足で、職員は地震以後おにぎりのみで副食なし。入所者も食糧不足のため1日2食になった。水分がとれず、脱水気味になった。地震後、少なくとも3月21日までは、全員、風呂に入れなかった。車での通勤が不可能になり、職員の多くは施設に泊まり込んだ。
 建物が1棟損壊して、危険な状況になった。50人が別の2棟(それぞれ50名収容)に割り振られたため、生活範囲が狭くなった。車椅子に乗って動くスペースがなくなった。リハビリができなくなった。
 運動機能、全身状態がみるみる悪化した。

6 3月212日老健(小名浜ときわ苑)疎開作戦(松浦新「要介護者の避難に、広がれ『鴨川モデル』」ウェッブ論座) http://astand.asahi.com/magazine/wrbusiness/2011032200012.html?iref=webronza
 大形バスと施設所有の車で搬送。いわき側では、救援のために小名浜に入港する予定の神奈川県の船の利用を検討したと聞いた。定員が少ないことに加えて、2段ベッドで、重症者の観察、介護が不可能だと判断したという。自衛隊は連日の大活躍で過剰な負荷がかかっていた。自衛隊への出動命令がなかなか出せない状況だったかった。実際、人工呼吸器を使用している患者の亀田総合病院へのヘリ搬送を実現するのに、政治的働きかけが必要だった。米軍は、日本政府が要請しないので、被災者を搬送できなかった。結局、入居者120名と職員、家族、全体で200名弱、セラピー犬2頭、飼い犬1頭がバスと施設の車で移動した。
 劣悪な環境にいたので、入所者の体調は悪かった。移動するにも危険はあったが、現地にとどまることにはさらに大きな危険があった。さらに、原発の状況で避難範囲が広がると、混乱状態になり、組織だった避難が不可能になる。少数の職員と入所者が取り残される可能性が高くなる。後述するように、避難範囲に含まれる病院や介護施設で、取り残される事例が実際に発生した。負け戦での潰走状態に酷似した状況になる。組織的対応が可能な間に搬送することになった。

7 現場の邪魔になった各種馬鹿
○詳細情報要求馬鹿
 残念ながら、行政やメディアだけでなく一部の医師にも観察された。苦境にある相手の状況を想像せずに、細かい情報を要求する。
 潰走状態にある戦闘部隊に人数、年齢構成、携帯している食糧の種類と量、武器と弾薬の種類と量、到着予定時間などの情報をよこせというのは、馬鹿としか言いようがない。

○5W1H馬鹿
 自称Y新聞の記者が、亀田総合病院の地震対策本部に電話してきた。老健の出発が何時か聞いてきた。10時目標だがいつになるか分からないと返事。それでも、予定は何時かとしつこく尋ね続けた。入所者をバスに運び込むのに、ひどく時間がかかるので、出発時間など分かるわけがないというと、到着時間の予定は何時かと尋ねてきた。出発時間が分からない移送の到着時間の予定などあるはずがない。超多忙で事態に当たっていたので、馬鹿ものと怒鳴って電話を切った。上司が真正5W1H馬鹿で、本人は馬鹿追随馬鹿かもしれない。
 
○「正義の味方」馬鹿
 自分を正義の立場におき、善悪の基準で物事を判断する。誰かを悪人に仕立てて非難することが事態の改善につながなると思っている。あるいは、習性でそのような行動しかとれない。
 老健疎開作戦についての、3月221日の毎日新聞の見出しは「集団避難中に2人死亡 福島から千葉 長距離移動にリスク」だった。2人の死亡を、記事の最後の2つのバラグラフで大きくとりあげた。「長距離移動にリスク」をとりあげるのなら、同時に「劣悪な環境に残すことのリスク」をとりあげる必要がある。
 今回の震災で、逆の報道もあった。福島県の双葉病院で、避難中入院患者が「置き去り」にされて20数名が死亡したとされる事件があった。で、同院の医師と思われる人物(未確認)の掲示板への書き込みを、友人の神田橋宏治医師が紹介してくれた。正しいかどうか確認する手段を持たないが、この事件の報道が一瞬で途絶えたことから判断すると、事実の可能性が高い。
 以下一部を引用する。

 自力で歩ける患者さんを中心に209名の患者さんと私を含め数十名の職員が5台のバスと数台の病院の車に乗って、数日分の薬と非常食を積んで大急ぎで避難しました(避難したのは最初の爆発の2時間前でした)。この時は一時的な避難で、病院に数日以内に帰ると思っていました。私たちの出発時に院長は病院に間違いなく残っていました。
(中略)
 さて、病院に残った院長と数名のスタッフは、1回目の水素爆発の後も電気も水道も通信手段もない(携帯も公衆電話も不通)病院で点滴やオムツの交換をしつつ次の救援を待っていたそうです。自衛隊の救援が来たのは、丸2日後の3/14の午前で、近くの老健の入所者98名と双葉病院の寝たきりの患者さん30名をバス8台で連れて行きました。その後院長を含む4名が警察官と共に次の救援を待っている間に3回目の水素爆発があり、3/15午前1時に警察の車で強制的に川内村まで避難させられたそうです。
 院長一行は川内村から再び病院に戻ろうとしましたが、避難指示のエリアということで戻ることは許可されず、1回目とは別の自衛隊員だけで最後まで残された90数名の患者さんを避難させたそうです。自衛隊によって避難させられた患者さんは、名前も病名もわからない状態で医療機関や施設に収容され、中には亡くなった患者さんもおり、各病院の先生方にはご迷惑をおかけし、大変申し訳なく残念に思っております。
 以上の経過の通り、患者さんが全員避難するまで院長は病院に留まろうとしていたのにもかかわらず、強制的に警察に退避させられたのです。間違っても患者さんを置いて「逃げた」わけではないのです。
 おそらく最後に患者さんを避難させた自衛隊員の報告を聞いた県の担当者が、何の裏づけも取らず「なぜ入院患者だけがいたか、現段階では分からない。避難する中で混乱が起きることはあるが、もし高齢者だけを置いて避難したとしたら許せない」と発言し、新聞が横並びに報道したものと思われます。後になって県は訂正しましたが、果たしてどれほどの人がこの訂正を知っているでしょうか?

 老健疎開作戦についての毎日新聞の記事には。駒木智一という署名が入っていた。この記者は少なくとも、当日鴨川には取材に来ていなかった。記者がよくとる方法だが、責任を回避するために、明確な主張をしていない。あいまいさやほのめかしに徹している。見出しと合わせて、無理な移動で人命を失ったという印象を誘導しているように思える。
 東京電力の記者会見に出席している記者の多くは、この範疇に入るかもしれない。原発事故の現場で、命がけで頑張っている東京電力社員を、安全地帯にいる記者が攻撃する図は正視に堪えない。質問する記者を名前入りで撮影すべきではないか。

○電話馬鹿
 電話をかけることが、相手に迷惑になることが想像できない。自分が欲しい情報、しかも、事態を改善するのに役にたたない情報を得るために、超多忙な現場に電話をかける。

○前例踏襲馬鹿
 危機的状況でも、前例がないと動けない。

○目立ちたがり馬鹿
 大きな寄与をしていない、あるいは、ときに阻害要因になることすらあるのに、メディア(ネットメディアを含めて)に自身を露出することには熱心に動く。メディアに売り込むためには、疲れ果てた当事者に負担をかけることを厭わない。

8 英雄
 前例がない中で、疎開後もこれまで通りの介護報酬請求を認めることを確約してくださった渡辺敬雄いわき市長の英断にエールを送る。
 高齢の要介護者を迎え入れるために、80kgのベッド120台をエレベーターなしで搬入し、翌日には入所者をけがさせないように丁寧に運びいれてくださった市民のボランティアに感謝する。
 絶望的な状況の中で、10日間持ちこたえ、さらに、死に物狂いの大搬送作戦を完遂した弱冠39歳の施設長とスタッフに満腔の敬意を表する。

  1. 2011/03/27(日) 06:22:35|
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